鯉あげ
鯉あげ (こいあげ) は、大正8年から昭和13年まで行われた学校の前途を祝して毎年五月五日に気球をつけた鯉のぼりをあげる行事。
内部に風船を詰め込みさらに上部にも風船を取り付けた巨大な鯉のぼりを空にあげるのだが、そのまま回収することもなく流していたようで、障害物や交通への影響などを考えると現代ではとても考えられない行事である。当時の学校周辺が都内といえど相当になにもない場所だったのだろうと想像するにたる。
様子
鯉あげの様子は、当時生徒であり、その後五中の教員、小石川高校の第6代校長も務めた眞田幸男が開拓51号に寄稿した以下の文章が非常にわかりやすい。
五月五日、端午の節句、男の子の節句、この日を選んで、毎年開校記念日の鯉あげ行事が行われた。
この日朝、校庭には、巨大な二匹の鯉、緋鯉と真鯉の二匹の鯉が持ち出される。もちろん、幟の鯉である。この鯉の腹には、ゴム風船がいっぱいつめ込まれ、背中にも、糸でくくりつけられるだけのゴム風船が結ばれている。
一年生の中で一番小さい、かわいい生徒が二人選ばれて、それぞれ同じく五年生(最上級生)から選ばれた全校一のノッポ生徒二人の肩車に乗り、両手で前記の緋鯉真鯉を支える。用意はできた。全校生徒は、この二組の鯉を囲んで円形を作って堵列し、かたずをのんでいる。まさに那須与一の扇の的を見つめて息をのむ源平両氏の軍勢といった風情である。
やがて定刻が来ると、体操の先生の合図の笛が鳴り渡り、二人の一年生は、一斉に手を放す。二匹の鯉は、おもむろに、しかし確実に校庭を離れて舞い上がってゆく。年によって天候の差はあったろうが、おおむねこの日はよく晴れた。あるいは、腫れ上がって無風の日の記憶ばかりが、鮮明に残っているのかもしれない。
いずれにしても、全校生徒の歓呼の中を、二匹の鯉は、初めは垂直に、ある程度上がってからは、その日の風向きに従って、五月晴れの空を飛翔してゆくのだ。その二匹の鯉が、理研の屋根を越え、岩崎の山(六義園)の梢を越えて、やがて空の一角に二つの点となり、それもやがて肉眼では認め得なくなるまで、全校生徒の目は、飽かずにこの鯉の行方を見守るのだ。
再開の試み
戦後の昭和23年に復活の試みがあった。富坂警察署に催しの連絡をしたところ警視庁の意向として「占領下にあっては望ましからず」という返答があったようだが断行された。当時の職員会議の議事録に「五月五日、十一時より屋上にて鯉幟飛翔式」との一行がある[1]。
創立85周年記念行事の際に学校の中庭に鯉のぼりを吊るして、鯉あげの再現が行われた。
脚注
- ↑ 紫友同窓会報No.44