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+ | 東京府立第五中学校は創設せられ、紫友会は成立した。併し生まれたばかりの此学校が今から後にどの様な生ひ立ちをなすべきか誰しも豫言することは出来ぬ。うなる子の様な純真なる心に、世の中のすべてを受け入れながら、多くの立派なる模範を他の学校から採ることが大切であるけれども、長き歴史を有し居る学校であるからというても、其校風が立派であるとは定まって居らぬ。 | ||
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+ | 世界の大戦が終わりを告げたからとしふて、今更の如くに改造を唱えるのは浅はかな考えと言わねばならぬ。けれども、徒に奮きを守りて、生々進歩の常道を無視する様な笑ふべき態度に陥ることも宜しくない。古今を貫き東西を通じて、宇宙の真理があり人生の正道が生きて居る。この真理を求め | ||
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2018年9月17日 (月) 13:19時点における版
開拓 (かいたく) は、大正8年の創立当時から発行が続く校友誌である。
概要
教職員、保護者、生徒で構成される紫友会が発行する校友誌として創立初年度から発行が始まった。戦前までは年に1, 2回のペースで発行されていたが、戦争激化のためと思われるが 1943年(昭和18年)10月25日の第34号で中断された。戦後は昭和22年3月1日に第35号を発行して復刊した。復刊直後は発行間隔が安定しなかったが、第38号以降は現在に至るまで年1回(年度末)の発行が定例化している。
当初より生徒の絵画、写真、論説、小説、研究報告などが多い研究報告・作品紹介の色合いの強い雑誌である。特に戦後は校友会としての財団法人紫友会からPTA、生徒自治会が分離独立した影響もあってか、紫友会決算報告や行事報告などの記事が徐々に姿を消して実質的に文芸誌となっていった。昭和46年の新聞「創作」には開拓の存在意義を問う記事が掲載された[1]。
巻頭の辞
東京府立第五中学校は創設せられ、紫友会は成立した。併し生まれたばかりの此学校が今から後にどの様な生ひ立ちをなすべきか誰しも豫言することは出来ぬ。うなる子の様な純真なる心に、世の中のすべてを受け入れながら、多くの立派なる模範を他の学校から採ることが大切であるけれども、長き歴史を有し居る学校であるからというても、其校風が立派であるとは定まって居らぬ。
世界の大戦が終わりを告げたからとしふて、今更の如くに改造を唱えるのは浅はかな考えと言わねばならぬ。けれども、徒に奮きを守りて、生々進歩の常道を無視する様な笑ふべき態度に陥ることも宜しくない。古今を貫き東西を通じて、宇宙の真理があり人生の正道が生きて居る。この真理を求め
発行体
東京府立第五中学校 紫友会(1-30)
東京府立第五中学校 紫友報国団(32-34)
東京都立第五中学校内 紫友会(35)
東京都立小石川高校学校内 開拓編集室(37-40)
東京都立小石川高等学校内 開拓編集部(41-58)
東京都立小石川高等学校生徒自治会 開拓編集部 (59-64)
東京都立小石川高等学校生徒自治会(65-69)
東京都立小石川高等学校生徒自治会 開拓編集局(70-)
第36号
保管資料や記録から第36号が抜けている。発行されたとすれば第35号(昭和22年3月1日発行)から第37号(昭和25年12月8日発行)までの3年9ヶ月の間に発行されたはずだが、戦後復興期の混乱で保管資料や記録が抜けたのか、そもそも発行されておらず号数を数え間違えたのかはっきりしない。
一覧
第1号(大正9年1月31日)
第2号(大正9年12月24日)
第3号(大正11年3月23日)
第5号(大正13年2月11日)
第6号(大正14年3月31日)
第7号(大正14年7月1日)
第8号(大正14年12月1日)
第9号(大正15年7月30日)
第10号(大正16年3月5日)
脚注
- ↑ 創作 第89号 4ページ (昭和46年11月8日発行)