「開拓」の版間の差分

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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戦前までは年に1, 2回のペースで発行されていたが、戦争激化のためと思われるが 1943年(昭和18年)10月25日の第34号で中断された。戦後は昭和22年3月1日に第35号を発行して復刊した。復刊直後は発行間隔が安定しなかったが、第38号以降は現在に至るまで年1回(年度末)の発行が定例化している。
 
戦前までは年に1, 2回のペースで発行されていたが、戦争激化のためと思われるが 1943年(昭和18年)10月25日の第34号で中断された。戦後は昭和22年3月1日に第35号を発行して復刊した。復刊直後は発行間隔が安定しなかったが、第38号以降は現在に至るまで年1回(年度末)の発行が定例化している。
  
当初より生徒の絵画、写真、論説、小説、研究報告などが多い文芸誌的色合いの強い雑誌である。特に戦後は校友会としての財団法人紫友会からPTA、生徒自治会が分離独立した影響もあってか、紫友会決算報告や行事報告などの記事が徐々に姿を消して実質的に文芸誌となっていった。昭和46年の新聞「創作」には開拓の存在意義を問う記事が掲載された<ref>創作 第89号 4ページ (昭和46年11月8日発行)</ref>。
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当初より生徒の絵画、写真、論説、小説、研究報告などが多い研究報告・作品紹介の色合いの強い雑誌である。特に戦後は校友会としての財団法人紫友会からPTA、生徒自治会が分離独立した影響もあってか、紫友会決算報告や行事報告などの記事が徐々に姿を消して実質的に文芸誌となっていった。昭和46年の新聞「創作」には開拓の存在意義を問う記事が掲載された<ref>創作 第89号 4ページ (昭和46年11月8日発行)</ref>。
  
 
[[ファイル:Sousaku46kaitaku.jpg|thumb|none|開拓の存在意義を問う記事]]
 
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2018年8月27日 (月) 09:14時点における版

開拓 (かいたく) は、大正8年の創立当時から発行が続く交友誌である。

概要

開拓同好会、開拓編集委員会

戦前までは年に1, 2回のペースで発行されていたが、戦争激化のためと思われるが 1943年(昭和18年)10月25日の第34号で中断された。戦後は昭和22年3月1日に第35号を発行して復刊した。復刊直後は発行間隔が安定しなかったが、第38号以降は現在に至るまで年1回(年度末)の発行が定例化している。

当初より生徒の絵画、写真、論説、小説、研究報告などが多い研究報告・作品紹介の色合いの強い雑誌である。特に戦後は校友会としての財団法人紫友会からPTA、生徒自治会が分離独立した影響もあってか、紫友会決算報告や行事報告などの記事が徐々に姿を消して実質的に文芸誌となっていった。昭和46年の新聞「創作」には開拓の存在意義を問う記事が掲載された[1]

開拓の存在意義を問う記事

発行体

東京府立第五中学校紫友会(1,2)

第36号

保管資料や記録から第36号が抜けている。発行されたとすれば第35号(昭和22年3月1日発行)から第37号(昭和25年12月8日発行)までの3年9ヶ月の間に発行されたはずだが、戦後復興期の混乱で保管資料や記録が抜けたのか、そもそも発行されておらず号数を数え間違えたのかはっきりしない。

一覧

脚注

  1. 創作 第89号 4ページ (昭和46年11月8日発行)