1970年度 (昭和45年度)

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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できごと

行事週間をつくり、三大行事(創作展芸能祭体育祭)中は授業をせず、全生徒が専心できるようにする(7月8日参照)。

4月 新カリキュラム導入、必修100単位から80、85単位で卒業 [1]

4月8日 入学式(男子294、女子140、計434名)[2][3]

4月8日 始業式(午後、中庭での始業式を全闘連が妨害。学校当局は全生徒をHRに移し、校内放送で始業式挙行)[2][3]

4月10日 学校告示「始業式妨害非難声明」。妨害生徒6名に厳重警告 [2]

4月11日 第1・2校時、全生徒に新カリのガイダンス。25日に選択最終調整、受講生徒名簿確定 [2]

4月22日 身体検査 [2] 身体検査・結核検診 [3]

4月23日 第5校時、定例生徒総会(44年度決算・45年度予算案承認) [2]

4月25日 第3・4校時、臨時生徒総会(生徒会中央委・評議会が要請。生徒会規約一部改正承認) [2]

5月1日 芸術鑑賞会(於・国立博物館、スペイン展) [2] (高等学校「学校要覧」昭和45年度には「美術教室」とあり、以降しばらく同様)[3]

5月4日 開校記念日 [3]

5月13日 春の遠足。1年は秋川渓谷。2年は2班に分かれ大島・マザー牧場。3年、クラス別 [2][3]

5月20日 下校時に全闘連のステッカーを教員が誤ってはがす。21日に学校側が遺憾表明 [2]

5月23日 PTA総会 [3]

5月28日~30日 中間考査 [2][3]

6月3日 午後、臨時生徒総会(署名要求に基づく。安保問題討論) [2]

6月5日 MLとベ平連がそれぞれ立看で「反安保集会参加の呼びかけ」。この頃から、校外で高校生も混じった学生・労働者の反安保街頭闘争が再び激化。安保固定期限切れ(6・23)を間近かに控え、校内でも昼休時・放課後などに一部生徒による訴えや校庭デモあり [2]

6月10日 模試・実力テスト廃止と、保田臨海生活中止決定 [2]

6月23日 全闘連「授業ボイコットで全国反安保統一行動へ参加の呼びかけ」(ビラ・立看)。但し、授業は平静に行なわれる。放課後、一般生徒も含めて数十名が日比谷公園へ。14、23日の両日に本校生徒各1名が街頭デモで逮捕 [2]

7月8日 生徒中央委員会からの「行事週間 設置要望(三大行事の充実・向上を図るため、一定の期間を設け、その間には授業は行なわず、全生徒が三大行事に専心出来るようにする)」を職員会議で承認 [1] [2]

7月8日~11日 学期末考査 [2][3]

7月11日 期末考査終了後、夏季クラブ合宿・学校キャンプ(於・奥秩父キャンプ村)参加希望者検診[2]

7月20日 終業式。式の最中に全闘連が“1学期の総括集会の呼びかけ”を行なおうとするもマイク故障。後日、終業式妨害未遂事件関係生徒3名に校長から注意 [2][3]

(夏季休業中)クラブ合宿 [3]

(夏季休業中)水泳講習 [3]

9月1日 始業式 [2][3]

9月中旬 結核検診 [3]

9月27日~28日 創作展 [2]

9月27日~28日 創作展・芸能祭 [3]

9月27日~30日 創作展 [4]

9月30日~10月1日 芸能祭 [2]

10月2日 映画・講演・討論会その他 [2]

10月10日 体育祭。4日予定、5・6日代休。但し、4、5両日に降雨が続き、体育祭実施不能。4日は休日、5日は授業。10日に体育祭延期。12日代休 [2][3][4]

10月19日~20日 2年、一部教科の一斉テスト実施(2年の修学旅行が、中間試験期間中と重なるため) [2]

10月19日~20日 中間考査 [3]

10月21日 昼休時、入管闘(8・29に結成)がA棟大職前まで校舎内デモを強行。学校側が違反行為を警告 [2]

10月26日~31日 2年修学旅行(4泊5日)、瀬戸内海方面へ1班、翌日2班出発 [2][3]

10月28日~30日 1・3年中間考査 [2]

11月 K戦線公開質問状に対し「一部生徒の質問に対する回答」を掲示 [1]

11月6日 K戦線が「公開質問状(新カリを中心に、本校での教育改革の実態を批判)」提出 [2]

11月7日 強歩大会(2回目) 多摩湖1周。男子13㎞、女子8㎞ [2]高等学校「学校要覧」昭和45年度/2・3には「マラソン大会」とある[3]

11月12日 学校側が「公開質問状に対する回答」を掲示すると共に、同文のプリントを全生徒に配布 [2]

11月13日 K戦線が学校当局に“団交”を要求 [2]

11月18日 エーザイ株式会社に 見心寮 を売却 [2]

11月18日 学校側が全生徒にプリント「改革の主旨と解説」を配布。放課後“一部生徒の質問に答える会(いわゆる団交①)”(於・講堂。全教員、参加した生徒は1年生を中心に160名)[2]

11月24日 放課後“団交②”(於・紫友会館。生徒指導部を中心に教員31、生徒25名)[2]

12月 見心寮 売却 (60周年記念誌では「11月18日 エーザイ株式会社に見心寮を売却」)

12月14日〜12月17日 学期末考査 [2][3]

12月25日 「創作」第87号発行

12月25日 終業式 [2][3]

12月25日〜12月30日 スキー教室、夜行で出発(於・妙高高原、5泊6日) [2][3]

1月 食堂の食券を1枚40円から45円に値上げ[5]

1月8日 始業式[2][3]

1月26日 第3校時、臨時生徒総会(K戦線要請の、署名要求に基づく。「劉君の在日滞留許可の打切り反対討議のため」)。但し、第4校時には定数不足となり総会不成立。集会に切換え[2]

1月29日 第6校時に当てられた臨時生徒総会(26日と同じ)も、定数不足で不成立のため、集会に切換え[2]

2月 出入国管理法についての臨時生徒総会[6]

2月 入管法問題をめぐりハンガーストライキ[6]

2月 劉道昌君を囲む座談会[6]

2月1日 登校時、校門に「入管法阻止、新講座(実験講座)獲得の公開質問状」の立看。昼休時、入管闘生徒2名がハンストに突入[2]

2月2日〜2月3日 入管闘要請の、署名要求に基づく臨時生徒総会は、両日とも定数不足で不成立[2]

2月4日 第2校時、入管闘生徒8名が“ハンスト支持”を呼号して校舎内デモ強行。授業妨害を阻止しようとする数名の教員に討論を強要しこづく。以後、教員に対する同様な事件が2度発生[2]

2月10日 授業打ち切り(3年)[3]

2月13日 SHR時に、学校側はプリント「全生徒諸君へ」を配布し、入管闘生徒が要求する新講座を不認可宣言。放課後、入管闘主催の“劉君招待懇談会”(於・紫友会館。生徒40名、オブザーバーとして教員5名)[2]

2月18日 放課後“団交”(於・講堂。教員19、生徒40名)[2]

2月23日 学力検査[2]

2月23日 学力検査終了後、校門警備を破り、入管闘生徒数名が下校する受験生にビラを配る[2]

2月24日 一部生徒による一連の暴力的行為・違反行為に対し、学校当局が警告。全校生徒にもプリントを配布し、事実説明と学校側態度を示す[2]

2月25日 第3校時、入管闘生徒2名が放送室を占拠し数分間“劉君に応ぜずして新カリを認めるな”と放送。一般生徒多数が放送室周辺に集まり暴挙を非難。学校側も違反行為を警告し電源を切る。昼休時、入管闘が武装校内デモ。放課後“団交”(於・紫友会館。教員18、生徒20名)[2]

2月26日 第5校時、再度8分間放送ジャック[2]

3月 期末考査にバリケード闘争起り考査中止

3月 C棟の増築普通4教室が完成[1][7][8]

3月 各HRで卒業式[9]

3月 創立50周年記念事業として講堂内外の修復が完了。講堂下1階の一部は定時制給食用食堂として改造[7] この工事によって講堂2階部分が傾斜床から水平床に変更になったと思われる。

3月1日 「開拓」第57号発行

3月6日〜3月10日 学期末考査[3] (2日目で中止)

3月7日 夕方から入管闘生徒4名が他校生12名とA棟2階の大職を中心にバリケード構築開始、期末テストが2日目で中止[2][6][1][9]

3月8日 早朝に全教員集合。警察力を極力避けて、自主解除に全力をあげることを確認。始業時までに教員の手で大職以外のバリケードを解除。登校した一般生徒にHRで担任が期末考査延期を知らせるとともに封鎖経過を説明。その後、HR討論。他方、引続き教員がバリ実行生徒(バリ実行委と自称)にバリ封解除を説得するも応ぜず。夕方、職員の手で大職のバリ封鎖解除を試みるも抵抗が激しく不成功[2]

3月9日 朝から一般生徒はHRなどで自主討論。HR或は生徒有志による「バリ封解除要求」の立看が林立。午後、生徒会中央委員会が「バリ封自主解除希望書」をバリ実行委に手交。[2]

3月10日 正午からバリ封内に百名程度の一般生徒が入り“討論会”。午後3時、バリ実行委が自主解除を宣言し、封鎖を解き始める[2][6]

3月13日 臨時生徒総会で期末考査中止要請を採決。学校側は、期末考査中止を決定。その後、“団交”を2度開くも、いずれも参加生徒は10名程度。なお、学校当局は、封鎖に中心的役割を演じた生徒とその保護者に対して連名の確約書を提出させる[2]

3月20日 修了式。1・2年の通知表は新学期に手交することとする[2] (高等学校「学校要覧」昭和45年度/2・3の予定には「終業式」とあり)

3月22日 卒業式(男子303、女子138、計441名)。式はHR毎に行なわれ、校内放送で校長式辞[2] (高等学校「学校要覧」昭和45年度/2・3の予定には「3月15日」とあり)

3月30日 (新入生召集日)[2]

3月30日 1・2年成績会議[2]

教職員一覧

職名 教科目 氏名 担任 校務分掌 クラブ顧問 PTA・紫友会
校長 井上義夫 紫友会理事長
教頭 社会(倫理・政経) 松元俊雄 P副会長・紫理事
教諭 国語 市毛勝雄 2G 生活指導 男子バレー
金津秀一郎 2C 学年主任 P委員・紫監事
木村博 1D 人事(長) 写真研 P委員
鈴木由次 人事、運営、教問検
西川朝彦 1A 生活指導 女子バレー
南沢鉄郎 バドミントン・新聞研
森下千代 生活指導
吉田良夫 3D 生活指導 映研・劇研 P委員
社会 倫社・政経 田中正彦 生活指導 野球・社研
川野健二郎 生活指導(長) 山岳・ワンゲル同 P委員・紫理事
世界史 小沢正男 教務 開拓
佐藤三夫 2I 人事・運営
日本史 野田幸三郎 教問検(長) 硬式テニス
毛利和夫 3G 生活指導 部落研
地理 斉藤薫 1G 学年主任 剣道 P委員・紫理事
高野繁 3H 人事・生活指導 男子バスケット
数学 青木太夫 2A 保健 野球
上野禮一郎 教務
国枝久士 教務(長) P委員
竹内誠吉 1C 保健・教問検 ワンゲル・数理研
田辺仁士 1B 生活指導 軽音研
留岡亮二 運営 バドミントン・鉄研
橋本弘子 3B 教務 卓球
三和一雄 運営・予算 サッカー 紫理事
理科 物理 江渡明穂 生活指導 電波研
佐々木晴彦 職員会議議長・教問検
松村清 1I 人事・運営・予算(長) 軟式テニス
化学 住谷正夫 2B 生活指導・教問検 落語研
竹野博 3I 学年主任 P委員・紫監事
長谷川俊明 生活指導 化学研・卓球
地学 土屋龍雄 2D 教務 天文研・地学研
生物 大滝末男 3C 保健 生物研・水泳・スキー
下河嗣朗 生活指導
保健体育 熱田恵司 2H 生活指導 男女バスケット
千葉芳弘 1H 生活指導 柔道
西中良夫 3E 保健(長)・予算 体操 P委員
三澤好章 保健 サッカー
馬上キミエ 教務 陸上
芸術 美術 大勝恵一郎 3A 運営 美研・将棋研
工芸 前田泰彦 生活指導
音楽 横田勇 教務 音楽研・室内楽研
外国語 英語 新貢治 運営(長)・予算 P書記・紫理事
石川昌 生活指導
井上喜八郎 1E 職員会議議長 写真研
大滝宗一郎 2E 生活指導 柔道
鈴木宏 1F 教務 ワンダーフォーゲル
田島敏雄 教務 陸上
三浦訖 3F 生活指導・教問検
山名盛義 2F 運営 英語研・民謡研
家庭 大町淑子
司書 面川洽治 教務
養護 大宅三恵子 保健 茶道・華道
講師・校医
教科 氏名
非常勤講師 国語 寺田純子
守屋禎次
社会 政経 阿部由紀
世界史 久能孝雄
数学 伊藤和雄
理科 地学 木原国昭
生物 今井壮一
保健体育 新藤宏子
外国語 英語 金子邦子
Ivan Bell
独語 布施敬二郎
家庭 山口恭子
富永万素子
山本純子
校医 内科 中村脩
耳鼻咽喉科 工藤シノブ
眼科 村尾勉
歯科 橋本八朗
薬剤師 高木重長
事務職員関係
職名 氏名 分担 PTA・紫友会
事務長 沢田芳郎 P委員・紫理事
事務主事 有賀清之助 庶務
岩崎弘 施設・契約 紫書記
加藤直子 給与
佐々木君子 給与
竹内節子 外郭団体会計
峰岸誠 契約・奨学
事務主事補 多胡奈都子 学事・管財
用務員 上原桑吉
鈴木弥太郎
吉田治男
警備員 高見芳美
望月季美
業務員 遠藤啓子 理科
正善夏子 図書
助手 片岡雪夫 事務
野村宏 教務
大久保誠二 教務
太田正治 理科

生徒在籍数

A B C D E F G H I
1年 33 33 33 33 31 33 32 33 33 294
16 16 15 16 16 15 16 15 15 140
49 49 48 49 47 48 48 48 48 434
2年 32 34 34 34 34 32 33 34 34 301
16 14 15 14 14 16 16 14 15 134
48 48 49 48 48 48 49 48 49 435
3年 35 35 33 33 33 34 34 34 35 306
15 15 16 15 15 16 16 15 15 138
50 50 49 48 48 50 50 49 50 444

芸能祭

9月00日開催

体育祭

10月4日開催

体育祭では「蛇の皮むき」とか「全員リレー(前年30人リレーと称した)」をやりました。「全員リレー」は各クラスがメンバーを確保するのに苦労、二度走る人もいました。二度走るのはよいとしても、別の学年が走った場合は失格としました。 体育祭や強歩大会については熱田先生の指導を受けました(昭和45年度体育委員長024F横山佳明)。

創作展 (第00回)

9月00日、00日の2日間

参加団体

創作展賞

強歩大会(2回目)

学校行事として主に一年生と二年生が参加した学校行事。この年度と前年度のみ行なわれた。

昭和44年度:昭和45年1月17日 強歩大会(1回目)狭山湖1周。男子13~15㎞、女子6~7㎞

昭和45年度:昭和45年11月7日 強歩大会(2回目)多摩湖1周。男子13㎞、女子8㎞

西武鉄道との交渉は「去年と同じでいいんだね」とのことで簡単でした。通学定期利用者の人数を調べ、全体の人数からその人数を引いた数のチケットを購入しました。行きは臨時電車2本、帰りは三々五々自由に帰ってきました(昭和45年度体育委員長024F横山佳明)。

一年生の時に多摩湖の周囲を走った(疲れた後は歩きに近い)と思います。ショートカットを知っている連中はズルして全コースを走らなかったとも聞きました。毎年ではなく025は1回限りだったと思います(025I田辺不二夫)。

開拓 (第57号)

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目次

  • 編集後記

都電

学校前を都電(20系統)が走っていた

このころまで学校前を都電20系統が走っていたが、翌年1971年の第六次都電撤去で廃止になっている。撮影者の大穂耕一郎(024G)は2009年5月29日の都電網研究会のインタビューに対して『僕は高校のときは鉄道研究会に入ってまして、高校2年の時に都電廃止の話が出て、2年の終わりには廃止されちゃうって言うんで、僕は冗談じゃないって怒ってね。ちょうどこの頃、学園紛争のあったときですから、タテカン(立て看板)書くのは当たり前だったんですね。僕も鉄道研究会で、タテカン立てましてね。「都電から見えるところに立てようぜ」なんて言って「都電廃止絶対反対」なんて書いて(笑)』[10]と当時を振り返っている。

卒業証書

この年の卒業証書

この年の卒業証書は本籍地が記載されていた。

卒業アルバム

関連事項

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 創立70周年記念誌
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 2.23 2.24 2.25 2.26 2.27 2.28 2.29 2.30 2.31 2.32 2.33 2.34 2.35 2.36 2.37 2.38 2.39 2.40 2.41 2.42 2.43 2.44 2.45 2.46 2.47 2.48 2.49 2.50 2.51 2.52 2.53 2.54 2.55 2.56 2.57 2.58 2.59 60周年記念誌
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 3.18 3.19 3.20 3.21 3.22 3.23 3.24 高等学校「学校要覧」昭和45年度
  4. 4.0 4.1 「創作」第87号:昭和45年12月25日/(1)
  5. 「創作」第90号:昭和47年3月15日/(4)
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 「創作」第90号:昭和47年3月15日/(2)
  7. 7.0 7.1 紫友同窓会会報No.1_1973年(昭48年)(3)
  8. 「創作」第134号:昭和60年3月8日/(1)
  9. 9.0 9.1 「創作」第113号:昭和56年7月20日/(4)
  10. 都電網研究会インタビュー#2(http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-123e.html)