「1918年度 (大正7年度)」の版間の差分

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== 開校 ==
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開校前年度。開校に向け、校舎の建設、校長の選任、入学者選抜試験などが行われた。
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== できごと ==
 
8月17日 本校設立認可・生徒定員800人、開校年月大正8年4月
 
8月17日 本校設立認可・生徒定員800人、開校年月大正8年4月
  
 
9月30日 小石川駕籠町に設置を決定(東京府告示288号)
 
9月30日 小石川駕籠町に設置を決定(東京府告示288号)
  
10月5日 東京府告示288号 東京府立第五中学校を小石川区駕籠町に設置し大正8年4月より開校す但開校に至るまで仮事務所を東京府庁内に置く(生徒定800員)<ref>東京府立第五中学校・学校沿革誌(1)、創立50 周年記念誌</ref>(創立70 周年記念誌には「1918年9月30日」とある)
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10月5日 東京府告示288号 東京府立第五中学校を小石川区駕籠町に設置し大正8年4月より開校す但開校に至るまで仮事務所を東京府庁内に置く(生徒定800員)<ref name="enkaku">東京府立第五中学校・学校沿革誌</ref><ref>創立50周年記念誌</ref>(創立70 周年記念誌には「1918年9月30日」とある)
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12月 府立病院跡の約4,000坪に第一期校舎建築工事に着手<ref name="enkaku"/>
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12月16日 東京朝日新聞に「理化学を主とする新設の府立五中、校長は伊藤長七氏、科学的に人格者を養成」という見出しの記事で創設が報じられた。<ref name="furitukyouikusi">桑原三二著「東京府公立中学校教育史」昭和56年5月15日発行 (資)高山本店</ref>
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1月15日 [[伊藤長七]]が校長に補せられた。<ref name="enkaku"/><ref name="sousaku61">「創作」第61号(昭和39年9月29日)</ref><ref name="kinensi70">創立70周年記念誌</ref>
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1月28日 生徒募集に関する事務所を小石川区竹早町の東京府女子師範学校内におかれた。<ref name="enkaku" /><ref name="sousaku61" />
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3月26-28日 東京府女子師範学校内にて入学試験施行され受験者938名。<ref name="enkaku" /><ref name="sousaku61" /><ref name="kinensi70" />
  
12月 府立病院跡の約4,000坪に第一期校舎建築工事に着手
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3月30日 合格発表。合格者186名。<ref name="enkaku" />
  
1月15日 [[伊藤長七]]が校長に補せられた。
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3月31日 第一期校舎落成。六義園近く、府立病院跡の約4,000坪<ref name="enkaku" /><ref name="kinensi70" />
  
1月28日 生徒募集に関する事務所を小石川区竹早町の東京府女子師範学校内におかれた。
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==府立五中の開設==
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桑原三二著の「東京府公立中学校教育史<ref name="furitukyouikusi" />」には五中の設立経緯として以下の記述がある。
  
3月26-28日 東京府女子師範学校内にて入学試験施行され受験者938名合格者186名。<ref>「創作」第61号(昭和39年9月29日)</ref>
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大正時代に入って中学校入学希望者が増加し、府立中学校の増設を希望する声が強くなった。大正5年12月1日開会の通常府会に「府立中学校増設に関する建議案」が上提され、可決された。
  
3月 第一期校舎落成
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府会の建議もあり、東京府は大正7年度の予算に中学校建築費157,000円余を計上し、4カ年計画(総計275,000円余)で府立五中の建設に着手した。
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大正7年8月17日、文部省から東京府立第五中学校の設置について認可が下り、東京府は同年9月30日、東京府告示228号によって府立五中を小石川区駕籠町に設立し、大正8年4月開校とすることを明らかにした。生徒定員は800名
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==理化学教育==
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大正7年12月16日の東京朝日新聞「理化学を主とする新設の府立五中、校長は[[伊藤長七]]氏、科学的に人格者を養成」の記事の中で伊藤校長は、井上府知事の希望もあり時局の関係上特に理化学を尊重することも考えられるが、それよりも頭脳を科学的に練磨することが根本方針だと述べている。思想と科学との交渉をもっと深くし、むしろ緻密な考察力を生活態度の根底として人格者を養成することに教育の目標を置きたいとした。当時としては極めてユニークな背広、ネクタイを制服とし、自由闊達な校風を目ざし「開拓、創作、立志」を校訓とし建学の精神とした。<ref name="furitukyouikusi" />
  
 
== 関連事項 ==
 
== 関連事項 ==
 
*[[1919年度 (大正8年度)]]
 
*[[1919年度 (大正8年度)]]
 
  
 
==脚注==
 
==脚注==
 
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2019年5月27日 (月) 09:45時点における最新版

開校前年度。開校に向け、校舎の建設、校長の選任、入学者選抜試験などが行われた。

できごと

8月17日 本校設立認可・生徒定員800人、開校年月大正8年4月

9月30日 小石川駕籠町に設置を決定(東京府告示288号)

10月5日 東京府告示288号 東京府立第五中学校を小石川区駕籠町に設置し大正8年4月より開校す但開校に至るまで仮事務所を東京府庁内に置く(生徒定800員)[1][2](創立70 周年記念誌には「1918年9月30日」とある)

12月 府立病院跡の約4,000坪に第一期校舎建築工事に着手[1]

12月16日 東京朝日新聞に「理化学を主とする新設の府立五中、校長は伊藤長七氏、科学的に人格者を養成」という見出しの記事で創設が報じられた。[3]

1月15日 伊藤長七が校長に補せられた。[1][4][5]

1月28日 生徒募集に関する事務所を小石川区竹早町の東京府女子師範学校内におかれた。[1][4]

3月26-28日 東京府女子師範学校内にて入学試験施行され受験者938名。[1][4][5]

3月30日 合格発表。合格者186名。[1]

3月31日 第一期校舎落成。六義園近く、府立病院跡の約4,000坪[1][5]

府立五中の開設

桑原三二著の「東京府公立中学校教育史[3]」には五中の設立経緯として以下の記述がある。

大正時代に入って中学校入学希望者が増加し、府立中学校の増設を希望する声が強くなった。大正5年12月1日開会の通常府会に「府立中学校増設に関する建議案」が上提され、可決された。

府会の建議もあり、東京府は大正7年度の予算に中学校建築費157,000円余を計上し、4カ年計画(総計275,000円余)で府立五中の建設に着手した。

大正7年8月17日、文部省から東京府立第五中学校の設置について認可が下り、東京府は同年9月30日、東京府告示228号によって府立五中を小石川区駕籠町に設立し、大正8年4月開校とすることを明らかにした。生徒定員は800名


理化学教育

大正7年12月16日の東京朝日新聞「理化学を主とする新設の府立五中、校長は伊藤長七氏、科学的に人格者を養成」の記事の中で伊藤校長は、井上府知事の希望もあり時局の関係上特に理化学を尊重することも考えられるが、それよりも頭脳を科学的に練磨することが根本方針だと述べている。思想と科学との交渉をもっと深くし、むしろ緻密な考察力を生活態度の根底として人格者を養成することに教育の目標を置きたいとした。当時としては極めてユニークな背広、ネクタイを制服とし、自由闊達な校風を目ざし「開拓、創作、立志」を校訓とし建学の精神とした。[3]

関連事項

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 東京府立第五中学校・学校沿革誌
  2. 創立50周年記念誌
  3. 3.0 3.1 3.2 桑原三二著「東京府公立中学校教育史」昭和56年5月15日発行 (資)高山本店
  4. 4.0 4.1 4.2 「創作」第61号(昭和39年9月29日)
  5. 5.0 5.1 5.2 創立70周年記念誌