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開拓館(かいたくかん)とは、1922年 (大正11年) 11月1日に完成した2階建ての洋風建築の校舎である。
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'''開拓館'''(かいたくかん)とは、1922年 (大正11年)に学校敷地の東角に完成した2階建ての洋風建築の校舎である。
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[[ファイル:Gochukousha.jpg|thumb|300px|昭和18年ごろの校舎平面図。右下に開拓館がある]]
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[[ファイル:016 A 003 0006.jpg|thumb|300px|開拓館内部(図書室)]]
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建坪60坪の洋風二階建。工費30600円(設備費を除く)。図書閲覧室、体育室に充てるために建てられた。
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完成の時期についてさまざまな情報があり、はっきりしない。[[紫友会]]がのちに開拓館と名付けられる図書室および体育場建設のため校地60坪を貸与した時期も大正11年4月<ref name="enkaku">東京府立第五中学校・学校沿革誌</ref><ref name="sousakugougai">「創作」体育館落成記念号外:昭和36年10月2日</ref><ref name="kinensi70">創立70周年記念誌</ref>または7月<ref name="sousaku61">「創作」第61号:昭和39年9月29日</ref>の2説ある。大正11年10月に「開拓館図書室に学制頒布五十年記念文庫を設置」<ref name="enkaku" />と開拓館が完成していることが前提になっている記録があるが土地貸与から完成まで半年足らずというのは考えにくい。その後、大正11年11月30日に「開拓館工事竣工」<ref name="enkaku" /><ref name="sousaku61" /><ref name="sousaku90">「創作」第90号:昭和47年3月15日</ref>との記録、大正12年1月14日に「開拓館開館式挙行」という記録<ref name="enkaku" />、大正12年11月30日に「開拓館完成(紫友会)、学校側に引き渡す」との記録<ref name="kinensi70" />がある。竣工から引き渡しまで1年もあったのか、引き渡しの記録が大正12年ではなく大正11年の間違いなのかはっきりしない。
  
 
2階に図書室が、1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎で、後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われた。
 
2階に図書室が、1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎で、後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われた。
  
 
2階の図書室は、邦書に限らず 英語の原書が金文字の背表紙でずらりと並ぶほどの、膨大な蔵書量だったと言われている。
 
2階の図書室は、邦書に限らず 英語の原書が金文字の背表紙でずらりと並ぶほどの、膨大な蔵書量だったと言われている。
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==エピソード==
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50年記念誌「[[半世紀]]」の座談会「伊藤校長と自由教育」には次のエピソードが残されている。
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板坂 あすこは教会の土地だったんですが、それを三年目ぐらいに買ったんじゃないですか。
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三和 あの建物は始めは、二階が図書室で、一階が畳の上のマナーの勉強の場所。
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成田 それと同時に柔道もやったよ。
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板坂 開拓館の二階でね、音楽の講義をきいた覚えがあるんです。
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(板坂登(旧制5回生)、当時教員の三和一雄(旧制3回生)、元教員の成田喜英(旧制1回生)、阪本泉(旧制1回生)、長沢吉男(旧制7回生))
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==関連事項==
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*[[校舎の変遷]]
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==脚注==
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<references />

2017年12月25日 (月) 15:12時点における最新版

開拓館(かいたくかん)とは、1922年 (大正11年)に学校敷地の東角に完成した2階建ての洋風建築の校舎である。

概要

開拓館
昭和18年ごろの校舎平面図。右下に開拓館がある
開拓館内部(図書室)

建坪60坪の洋風二階建。工費30600円(設備費を除く)。図書閲覧室、体育室に充てるために建てられた。

完成の時期についてさまざまな情報があり、はっきりしない。紫友会がのちに開拓館と名付けられる図書室および体育場建設のため校地60坪を貸与した時期も大正11年4月[1][2][3]または7月[4]の2説ある。大正11年10月に「開拓館図書室に学制頒布五十年記念文庫を設置」[1]と開拓館が完成していることが前提になっている記録があるが土地貸与から完成まで半年足らずというのは考えにくい。その後、大正11年11月30日に「開拓館工事竣工」[1][4][5]との記録、大正12年1月14日に「開拓館開館式挙行」という記録[1]、大正12年11月30日に「開拓館完成(紫友会)、学校側に引き渡す」との記録[3]がある。竣工から引き渡しまで1年もあったのか、引き渡しの記録が大正12年ではなく大正11年の間違いなのかはっきりしない。

2階に図書室が、1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎で、後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われた。

2階の図書室は、邦書に限らず 英語の原書が金文字の背表紙でずらりと並ぶほどの、膨大な蔵書量だったと言われている。

エピソード

50年記念誌「半世紀」の座談会「伊藤校長と自由教育」には次のエピソードが残されている。

板坂 あすこは教会の土地だったんですが、それを三年目ぐらいに買ったんじゃないですか。

三和 あの建物は始めは、二階が図書室で、一階が畳の上のマナーの勉強の場所。

成田 それと同時に柔道もやったよ。

阪本 始めは柔道じゃなくて、剣道をやってましたよ。

長沢 柔道は確か私が二年の時ですから昭和二年ですか。そのとき水高先生がみえて、嘉納治五郎先生の話をいろいろやって、それからですよ。

(中略)

板坂 開拓館の二階でね、音楽の講義をきいた覚えがあるんです。

三和 閲覧室のピアノでね。

(板坂登(旧制5回生)、当時教員の三和一雄(旧制3回生)、元教員の成田喜英(旧制1回生)、阪本泉(旧制1回生)、長沢吉男(旧制7回生))

関連事項

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 東京府立第五中学校・学校沿革誌
  2. 「創作」体育館落成記念号外:昭和36年10月2日
  3. 3.0 3.1 創立70周年記念誌
  4. 4.0 4.1 「創作」第61号:昭和39年9月29日
  5. 「創作」第90号:昭和47年3月15日