講堂

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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講堂 (こうどう) は1930年(昭和5年)に完成し、平成5年に解体されるまで存在した建物。1945年 (昭和20年) の空襲により校舎は焼失したが講堂だけは骨組み、壁など主要構造は残ったため戦後復興校舎でも構造を活かして再建された。2階建で1階部分は教室や食堂として使われ、2階部分が講堂。戦前の校舎焼失前は後方に行くほど床が高くなるいわゆる講堂であったが、戦後復興校舎では平床になり普段は体育館的な使い方がされていた。

戦前

1930年(昭和5年)に完成した鉄筋コンクリート2階建

昭和16年当時の校舎。中央にあるのが講堂

昭和18年当時の構成は下記のとおり

  • 1階:教室(3室)、物化職員室、化学教室(2室)、化学準備室
  • 2階:講堂、来賓控室
昭和18年当時の校舎平面図

焼失から復興

昭和20年4月の空襲によって校舎は焼失したが、講堂だけは主要構造が残った。

昭和20年の焼失校舎。講堂だけが残った

戦後復興校舎の建設に先立って1953年 (昭和28年)4月に講堂の屋根修理が終わっている。

校舎は焼失したままだが、講堂の屋根の修復が終わっている

戦後再建講堂

講堂外観。平成3年ごろ

戦後に再建された講堂は平床になり、通常は体育館的な使い方をされた。

講堂内部。平成3年ごろ

平成4年、新校舎完成後に解体されグラウンドになった。

2階講堂の床について

平成4年に解体された最終状態の講堂の床面は水平だったが、「窓枠の下面が後方に行くほど高くなっていること」「後方出入り口が利用できない高い位置にあること」から以前は2階の講堂はせり上がりの床になっていたことがわかる。

しかしどの時期にせり上がり床だったのかは判然としない。並木(022)、林(023)、清水(024)の記憶によると彼らが在学中だった昭和40年ごろの講堂の床は後方へせり上がっていて柔道の授業で転がった記憶があるという。一方で小田嶋(031)、久光(039)の記憶によると彼らが在学中の床は水平になっている。清水氏が卒業した昭和47年3月と小田嶋氏が入学した昭和51年4月との間には4年ほどしかない。おそらくこの間に講堂床面の改修工事が行われたのではないかと思われる。

また、戦前の2階講堂の床面については内部写真や図面が見つかっていないのでわからないのだが、外観写真を見ると2階部分の窓枠下面がまっすぐになっているように見える。このことから戦前の講堂の床は水平、戦後再建時にせり上がり、昭和40年後期に再び水平になったのではないかと思われる。