眞田幸男

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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眞田 幸夫 (さなだ、明治41年(1908年) - 平成15年(2003年)) は第6代校長。

経歴

眞田幸夫第6代校長

明治41年(1908年)に真田いねの子として生まれた。

1925年(大正14年)3月、府立五中4年修了(旧3回)。一高を経て東大文学部卒。昭和7年に府立五中の教諭となり昭和27年まで21年間勤務。その後、昭和27年10月から昭和30年10月まで都立多摩高校校長を務めて、昭和39年から昭和44年まで校長。

直木賞作家である佐藤愛子が自身の父佐藤洽六(紅緑)をルーツに、自身も含めサトウハチローら異母兄弟および子孫たちに伝わる「佐藤家の荒ぶる血」を纏めた大河小説『血脈』で、真田が洽六の妾の子であることが書かれている。つまり真田は佐藤愛子、サトウハチローと血は繋がってないものの異母兄弟ということになる。

「五中から一高、東大を卒業すると、教師に・・・・やがて小石川高校の校長になる。謹言居士だが生徒に慕われて・・・・(中略)佐藤家にたった一人東大での人格者がいたと思えば佐藤家の地ではないのだった」

五中・小石川での勤務

昭和7年から昭和27年まで教員として21年間勤務。

昭和39年から昭和44年の定年まで校長として勤務。

エピソード

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昭和27年1月30日小石川新聞「新しい伝統を作る人たちへ」の中で五中気質を次のように評している。

「・・・・頭がよくて判断が早く人との応対にソツがなくて、いわゆる如才がない。デリケートな神経、繊細な感受性、容儀のエレガンスとダンディズム、適度な茶目っ気を具え、適度にシニック、機知の織りなすサロン的会話を好む。(中略)勉強の要領がいいから、そうがつがつしないし、またがつがつする必要もない。時間的に余裕がある所から、教室をはなれたおのがじしの研究なり思索なりの分野を比較的多く享受する。・・・・」

立志・開拓・創作-五中・小石川高の七十年-では、就任当時の小石川高校の安定感とそれにたいしての危機感を感じられていたことが表記されている。 「……なにもかも御膳立ては揃っていた、……十二年ぶりに戻って来て、私が何よりもさきに直観しあのは、この安定感だった、……」(『開拓』五十一号”五中の伝統と今の小石川”眞田校長)(中略)眞田先生はこの平穏無事な”日常性”に何かしら満たされないものを感じたようだ。「……今の小石川を支配している安定ムードの中に……意欲の停頓の徴候は認められないか。……安易な、弛緩した気分は、めばえていないか。……激しく燃焼する精神の緊張は存在するか。……」(『開拓』五十一号”五中の伝統と今の小石川”)と問いかけた。[1]

脚注

  1. 立志・開拓・創作-五中・小石川高の七十年-

関連項目

前任 在任 後任
落合矯一

1964年度 (昭和39年度)

1965年度 (昭和40年度)

1966年度 (昭和41年度)

1967年度 (昭和42年度)

1968年度 (昭和43年度)

井上義夫