「校舎の変遷」の版間の差分

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では校舎の損害は比較的微少で10月1日には授業を再開し、被災・校舎焼失の第三中学の1・2年8学級を受け入れた。
 
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では校舎の損害は比較的微少で10月1日には授業を再開し、被災・校舎焼失の第三中学の1・2年8学級を受け入れた。
  
1930年(昭和5年)1月に新講堂落成(年月に異説あり)
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1930年(昭和5年)1月に新講堂完成(1930年12月完成との異説あり)
  
 
1945年 (昭和20年) 4月13日深夜から14日未明の空襲により、校舎全焼。
 
1945年 (昭和20年) 4月13日深夜から14日未明の空襲により、校舎全焼。

2016年10月27日 (木) 12:43時点における版

駕籠町校舎

卒業生による回想図
卒業生提供資料に基づき作成された配置図

元は東京巣鴨病院の跡地。初代校長の伊藤長七は「ゴミ溜め、どぶ水の池 八重むぐら繁れる中に 末枯れの秋の野の八千草 それが私の身の丈をかくす位に生えて居る所に 新たに運ばれた材木が五六本横たへられてあつた。『開拓せねばならぬ』といふ心の声が其時から私を刺激した様に存じます」と語ったと言われている。

敷地境界の一部には東京巣鴨病院当時のレンガ塀がそのまま使われ、2016年時点でも残っている。

1922年 (大正11年) 11月1日に敷地の東角に2階建ての洋風建築の開拓館が完成

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では校舎の損害は比較的微少で10月1日には授業を再開し、被災・校舎焼失の第三中学の1・2年8学級を受け入れた。

1930年(昭和5年)1月に新講堂完成(1930年12月完成との異説あり)

1945年 (昭和20年) 4月13日深夜から14日未明の空襲により、校舎全焼。


明化国民学校

1945年 (昭和20年) 4月25日小石川区林町102番地 明化国民学校に疎開

同心町校舎

もとは小石川高等小学校・小石川工業学校校舎。1946年 (昭和21年) 11月1日、小石川工業学校全日制が小石川区林町44番地の林町小学校に移転したのにともない同年11月13日五中がここへ移転した。小石川工業学校(定時制)と同居。

小石川区(文京区)同心町20番地(現文京区春日2-9-5)

昭和2年4月4日起工、昭和3年3月25日竣工

校舎構造:鉄筋コンクリート造3階建及び地階

校地坪数:2402坪5合9勺

1957年 (昭和32年)に駕籠町校舎への移転が完了するまでの10年ほどがこの校舎だった。この校舎の時代に第五中学校、第五高等学校、小石川高等学校と校名が変遷している。

同心町校舎(昭和27年度卒業アルバム)

同心町校舎平面図(小石川工業学校 昭和16年)

小石川高等小学校跡銘版

駕籠町校舎

1948年 (昭和23年)9月に復興委員会設置され、校舎再建の検討が開始された。

1953年 (昭和28年)4月に駕籠町校舎被災講堂の屋根修理(含更衣室新設決定)。同年11月に小石川高校復興期成会結成(3か年計画策定)。

第一期校舎落成記念の品

1955年 (昭和30年) 11月に駕籠町校舎、第一期工事完成、落成式典挙行。第1学年が駕籠町校舎へ移転し、引き続き第二期、三期工事着工。

1957年 (昭和32年) 4月に駕籠町校舎第二期、第三期工事完成。全学年駕籠町校舎へ移転

昭和30年代半ばの周辺の様子を神野藤昭夫(014B)は2016年に次のように振り返っている。

 校門(かつての都立小石川高校、今の都立小石川中等教育学校)の目の前は、不忍通り。須田町から江戸川橋へといたる路線を20番の都電が走っていた。すぐ左手は駕籠町の交差点。こちらは巣鴨車庫前から神保町をへて神田橋の方へといたる35番が走っていた。当時の白山通り、昔の中山道である。
 駕籠町の電停は、その後、千石一丁目と名をかえ、どちらの通りも拡幅され、さらに新しい白山通りができて、風景が一変、記憶と現実とを一致させることが困難になった。

1983年(昭和58年)11月にA棟に繋がった形で正門脇に2階建ての建物が完成。2階は音楽教室および音楽準備室。ハワイは前庭から校舎沿いに移設。

戦後校舎の夜景


新校舎

関連事項

レンガ塀

脚注