「佐々木純一」の版間の差分

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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==経歴==
 
==経歴==
明治45年 岐阜県に生まれる。
 
  
県立本巣中学校 岐阜県師範学校第二部および同校専攻科(理科)を経て 昭和6年 東京高校師範学校理科一部入学
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昭和25年4月 新制5期生として都立小石川高校に入学
  
昭和10年 同校卒業
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昭和36年から4年間 定時制高校に教員として勤務する傍ら、週2~3日程度、小石川高校(全日制)の教壇に立つ
  
昭和10年 三重県立宇治山田中学校教諭
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平成3年4月 東京都立小石川高校校長 着任
  
昭和14年 東京府立第三中学校教諭(現両国高校)
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昭和3年6月 伝統の力を継承しつつ実態に即し学校の活性化を図るため「教育問題検討委員会」を発足
  
昭和19年 東京高等師範学校教諭
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昭和4年3月 新校舎 第一期工事落成
  
昭和33年 東京教育大学府億高校教諭
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昭和5年3月 定年退職(校長離任)
  
昭和35年 東京都立小石川高校教諭教育庁指導主事
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昭和5年4月 私立高校 着任
 
 
昭和39年 教育庁指導部第三課長
 
 
 
昭和39年 指導部副主幹(全寮制高校担当)
 
 
 
昭和40年 東京都立秋川高校校長
 
 
 
昭和44年 東京都立小石川高校校長
 
<ref name="siyuu19"> 紫友同窓会会報第19号 </ref>
 
  
 
==エピソード==
 
==エピソード==
*昭和44年の創作第83号にて下記を述べている。
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*高校生として在学していた小石川高校の印象を以下のように書いている。「震災で駕籠町の校舎を失い、流転の後、同心町の老朽した建物に居を構えていた当時、戦後の混乱・物資不足の影は未だ尾を引いており、小石川工業ほか幾つかの学校との同居生活であった。教室の壁は煤けて薄暗く、それだけでも息苦しい雰囲気ではあった。しかし、府立五中以来の自由を尊重入る校風の中、生徒の活動は創意にあふれ活々としており、無能な私は往々にして気後れととまどいを感じつつも、そこで得たものは極めて大きかったと思っている。一言でいえば、生徒に教え込むよりも、自ら学び取らせる校風であった。」<ref name="siyuu21"> 紫友同窓会会報第21号 </ref>
「この学校の生徒は、比較的自由を正しく理解しているようだ。正しい自由とは、各自が責任をもって、その自由を使うことだと思う。」「立志というのは個性を発見し、自分の将来の方向を決めるために必要だ。創作・開拓については、伝統をただ守るだけでなく、柔軟な頭脳を持つ青年の持つ特権だと思う。」<ref name="sosaku"></ref>
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*校長着任前、平成三年度入試において小石川高校が30名もの大量二次募集を実施したことに大変な驚きを感じていた。<ref name="siyuu21"></ref>
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*校長在任時は、生徒急減期、そして私学志向の高まり(都立離れ)の中、強烈な危機感を抱いていた。また、そんな状況の中、小石川の伝統の教育方針である「多くの規制を加えずに生徒の自主性を尊重し、その中で一人一人の持つ可能性を大きく伸ばしていく」ということが、本当に生徒の実態に即したものであり続け得るのか危惧していた。<ref name="siyuu19"> 紫友同窓会会報第19号 </ref>
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*しかし、退任の挨拶で以下のように語っている。「『立志・開拓・創作』の優れた校是の下、自律の精神に裏付けられた自由を尊重する小石川の校風は、教育の原点そのものである。過保護や進学競争激化の風潮の下、表面的利害にのみ目を向けようとする人の多い中、至難であるかもしれない。しかしこの灯だけは是非とも守り続け、更に大きく発展させ続けていただきたいものと強く願います。」<ref name="siyuu21"></ref>
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*在任中、「七十周年誌」における差別用語問題の表面化、通学路の安全確保を図る上での近隣とのトラブル再発などが起き、それらの処理に振り廻されることが多かった。<ref name="siyuu21"></ref>
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*在任最後の年は、都や全国の高校長教会等の仕事で学校を空けることが多かった。<ref name="siyuu21"></ref>
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*小石川高校生として得た実感をもとに、生徒に対して何度も「高校時代をどのように過ごすかにより、その人の一生の価値観の基礎が固まると言っても過言ではない」と語りかけてきた。<ref name="siyuu21"></ref>
  
 
==脚注==
 
==脚注==

2018年9月1日 (土) 18:34時点における版

佐々木純一第13代校長

佐々木 純一(ささき じゅんいち)は、東京都立小石川高等学校校長(第13代)

経歴

昭和25年4月 新制5期生として都立小石川高校に入学

昭和36年から4年間 定時制高校に教員として勤務する傍ら、週2~3日程度、小石川高校(全日制)の教壇に立つ

平成3年4月 東京都立小石川高校校長 着任

昭和3年6月 伝統の力を継承しつつ実態に即し学校の活性化を図るため「教育問題検討委員会」を発足

昭和4年3月 新校舎 第一期工事落成

昭和5年3月 定年退職(校長離任)

昭和5年4月 私立高校 着任

エピソード

  • 高校生として在学していた小石川高校の印象を以下のように書いている。「震災で駕籠町の校舎を失い、流転の後、同心町の老朽した建物に居を構えていた当時、戦後の混乱・物資不足の影は未だ尾を引いており、小石川工業ほか幾つかの学校との同居生活であった。教室の壁は煤けて薄暗く、それだけでも息苦しい雰囲気ではあった。しかし、府立五中以来の自由を尊重入る校風の中、生徒の活動は創意にあふれ活々としており、無能な私は往々にして気後れととまどいを感じつつも、そこで得たものは極めて大きかったと思っている。一言でいえば、生徒に教え込むよりも、自ら学び取らせる校風であった。」[1]
  • 校長着任前、平成三年度入試において小石川高校が30名もの大量二次募集を実施したことに大変な驚きを感じていた。[1]
  • 校長在任時は、生徒急減期、そして私学志向の高まり(都立離れ)の中、強烈な危機感を抱いていた。また、そんな状況の中、小石川の伝統の教育方針である「多くの規制を加えずに生徒の自主性を尊重し、その中で一人一人の持つ可能性を大きく伸ばしていく」ということが、本当に生徒の実態に即したものであり続け得るのか危惧していた。[2]
  • しかし、退任の挨拶で以下のように語っている。「『立志・開拓・創作』の優れた校是の下、自律の精神に裏付けられた自由を尊重する小石川の校風は、教育の原点そのものである。過保護や進学競争激化の風潮の下、表面的利害にのみ目を向けようとする人の多い中、至難であるかもしれない。しかしこの灯だけは是非とも守り続け、更に大きく発展させ続けていただきたいものと強く願います。」[1]
  • 在任中、「七十周年誌」における差別用語問題の表面化、通学路の安全確保を図る上での近隣とのトラブル再発などが起き、それらの処理に振り廻されることが多かった。[1]
  • 在任最後の年は、都や全国の高校長教会等の仕事で学校を空けることが多かった。[1]
  • 小石川高校生として得た実感をもとに、生徒に対して何度も「高校時代をどのように過ごすかにより、その人の一生の価値観の基礎が固まると言っても過言ではない」と語りかけてきた。[1]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 紫友同窓会会報第21号
  2. 紫友同窓会会報第19号

関連項目

前任 在任 後任
馬場信房

1991年度 (平成3年度)

1992年度 (平成4年度)

郡司迪哲