学生歌
学生歌 (がくせいか) は昭和25年5月の小石川高校新聞の小論「新校歌を作れ」をきっかけに始まった学生主導による新校歌作成の運動の結果にできた歌である。昭和33年にようやく完成をみたが、6年の間に熱量が低下したのか、結果的には新校歌となることはなかった。
きっかけ(昭和25年)
昭和25年5月小石川高校新聞の小論(21ページ)新校歌を作れ
- 生活とともに歌える校歌を持たず、新入生は未だ校歌を知らない
- 創立時と現在での社会的背景の変化から、その意図の焦点や表現方法にも矛盾が感じられる
- 改正よりも新作成を適切な策として提唱
同じ小石川高校新聞より
- 昨年来一部の見識ある生徒の間でその反時代的性格を認め改正運動を起こす動きあり。
- また学校当局でも都教育庁へ改正願いを出すという話が出ていたがその後立ち消えに。
- 5月8日登校した1.2年生の半数570名に校歌(と100分授業)についてのアンケートを行ない、校歌を『改正すべし』が約60%。
- 改正賛成の主な理由 1.時代に合わない 2.当然だ、第一今まで存続し何回も平気で歌われたことがおかしい。 3.メロディーが古い
- 改正反対の主な理由 1.面倒くさいから 2.少し位時代に合わなくても伝統を守るべきだから 3.歌詞が勇ましくてよいから
- 校長先生のお話
- 我々の間でも勿論改正の動きはある。
- 色々な忙しい事態(校舎、運動場)を片付けてからこの問題に手をつけようと考えている。
- 某社会科教官の御意見 1 時代に左右されない表現を 2 6番が問題 3 もっとよい校歌を諸君の手で
- 先輩某氏の御意見 1 問題になる箇所が多くある 2 メロディ歌詞ともに新しいのを
生徒の一部でこのように新しい校歌を求める機運が高まり、彼らは学校当局(校長)も同じ方向性で動いていると感じたようである。しかしこの時期の校長であった澤登哲一の様子は70周年誌の497ページで次のように回想されている。
『生徒の新聞記者が、校歌の旧時代的表現を改めるだけでなく、校歌の根本精神から変えてもらいたいと理屈をこねたら、校長は即座に、オレもあれは嫌いだよ、早速あした都へいってくるといったという。生徒が来て、校歌を変えるのは校長が教育長へいってくるだけでいいんですか、と驚いていたが、案の定それっきりで校長からは何のお達しもなかった。その話を職員会議にも出さなかったのは、勿論である。』
校長自身は実のところあまり乗り気ではなかったようである。また同じ70周年誌の494ページには当時新聞とは別に雑誌「開拓」の編集部がさらに大規模なアンケートを実施したところ、そもそも校歌を知らない人が38%もいること、知っている人の42.7%は現状校歌を支持していることなど、新聞のアンケート結果とは異なる見解を出したという。
昭和26年11月、職員会では従来のままにするか、新しい校歌を作るか部分的に直すかなどの議論を行なったがはっきりした結論は出ず、「近く自治会で行なう世論調査を見た上で、校歌改訂についてあらためて検討」ということになった。自治会は世論調査をサボった。職員室でも問題はペンディングなまま放置された。[1]
経過(昭和30年初頭)
昭和30年7月の新聞に「創作展に総合性を、夜祭に学生歌を」において、「夜祭も同時に行いその時歌う学生歌を是非今年は作りたい。たとえば大学の寮歌はその時々の心を歌いだしたものであるからだ。」という趣旨の論説が掲載された。
昭和31年1月の自治会で学生歌を全校から募ることに決定した。主催は職員会と生徒自治会。歌詞の締切日は3月10日で、その後の終業式の場で歌詞が発表されることや、曲締め切りは4月上旬の予定が発表された。提案自体は職員会によるものではあるが、前々より校歌のように堅苦しくなく、学生らしい歌をつくろうとの声が生徒の中に多数見られたこともある。
昭和31年6月の新聞記事に校歌を知らぬという新入生の声が掲載された。
- 学校に入って2ヶ月になるがまだ一度も校歌を聞いていない。
- 2,3年生にきいても全部を知っている人はほとんどなく、1番だけでも知っている人は稀である。
- 例年だと入学式あるいは新入生が集まった席上で上級生が歌って聞かせたというが今年はどうしたのだろう。
- 年々歌い伝えられる校歌の基にその学校の校風伝統が生まれるのではないだろうか。
- 今からでも遅くはない。音楽の教師が、それができなかったら担任の教師が歌ってでもよいから
- 全校生、特に1年生に教えるべきだ。
同新聞には学生歌の応募状況にも触れられている
- 締め切り6月30日(締め切りが延期になったということだと思われる)
- 有志よりすでに2,3応募があった。
- 終業式に一番よい作品を発表し、作曲のほうは2学期にはいって募集する。
脚注
- ↑ 70周年誌