校歌

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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作詞・伊藤長七 作曲・北村 季晴


豐葦原の中原と 拓(ひら)きましけん日本武(やまとだけ)

尊(みこと)のみいつ吾嬬路(あづまぢ)に 古りし歴史は二千年

今將(は)た仰ぐ帝城の 武藏の國ぞ大いなる


源遠き文明の 科學(くわがく)の道に分け入りて

一もと咲ける野の花の ゆかりの色を翳(かざ)す時

立つるやここに創作の 眞理(まこと)をきそふ志


平和の光今更に 五州(ごしう)の海に輝きて

惠の波のいやひろく 八州(やしま)の外(ほか)に布(し)くところ

振(ふる)はんかなや開拓の  吾が校友の精

府立第五中学校校歌

1.豊葦原の中原と 拓(ひら)きましけん日本武

尊のみいづ吾嬬路(あづまぢ)に 古りし歴史は二千年

今将た仰ぐ帝城の 武蔵の国ぞ大いなる


2.流れも清き多摩川の 水にあらひて生まれたる

男心は東海に 聳えて高き不二の山

曙近き人の世の 彼方の空ぞなつかしき


3.豊島の里に程近く 樹立も深き岡の邊に

結ぶや少(わか)き人情(ひとごころ) 吾学びやの開拓に

理想の鍬を振り上げて 二つの腕の勇む哉


4.源遠き文明の 科学の道に分け入りて

一もと咲ける野の花の ゆかりの色を翳す時

立つるやここに創作の 眞理(まこと)をきそふ志


5.菅の荒野を飛ぶ鷲の 羽風も高き飛騨の山

白雲遠き高原に 行く手の森を眺むれば

小草(をぐさ)の露に命あり 吾踏む土に力あり


6.平和の光今更に 五州の海に輝きて

恵の波のいやひろく 八州(やしま)の外(ほか)に布(し)くところ

振はんかなや開拓の 吾が校友の精神を

エピソード

設立当初から制定され、当時は計6番で「紫友会の歌」(副題「開拓の精神」)であった[1]

大戦中、現在のものの6番「平和の光今更に」は「御陵威の光今更に」と変えられていた[1]

歌詞が前時代的であるとか、曲が地味で体育祭など活気を求められる場で使いにくいなどといった意見から昭和25年ごろに新校歌制定を求める声が上がった。結果的に新校歌が制定されることはなかったが、昭和30年初頭に学生歌の制定運動として再び動き出すことになった。

昭和31年新聞『創作』6月「校歌を知らぬという新入生の声」 学校に入って2ヶ月になるがまだ一度も校歌を聞いていない。 2,3年生にきいても全部を知っている人はほとんどなく、1番だけでも知っている人は稀である。 例年だと入学式あるいは新入生が集まった席上で上級生が歌って聞かせたというが今年はどうしたのだろう。 年々歌い伝えられる校歌の基にその学校の校風伝統が生まれるのではないだろうか。 今からでも遅くはない。音楽の教師が、それができなかったら担任の教師が歌ってでもよいから 全校生、特に1年生に教えるべきだ。

昭和54年新聞『創作』12月25日第106号「-特集-校歌を探る」

大正八年 校歌生まれる

東京府立第五中学校が創立されたのは、資本主義の思想が人々の間に定着してきて自由主義の風潮が流れ始めた大正八年(1919年)四月のことである。五中の創立と共にこの校歌も誕生した。

大正の十四年間は、昭和と明治という歴史的に大きな時代の交換期であり、波乱万丈の時代であった。教育界でも新しい、かつ自由な精神に則した教育の必要が、一部の人たちによって叫ばれていた。本稿の初代校長であり、校歌の作詞者である伊藤長七先生(紫友会館一階に胸像あり)は、当時としては民主的な考えをお持ちになっており、その確固たる教育精神が五中創立に秘められていたのである。「・・・一体今日の科学的教育、理化学的知識は功利主義に傾き易い。これは現代教育の謬想であって、思想と科学との交渉をもっと深くし、むしろ厳密な考察力を生活態度の根底としてそこに人格者を養成することに科学の職能をおきたいと思う・・・。」と伊藤校長は”新設の府立五中”という新聞記事の中で述べている。(昭和三十九年九月二十九日発行「創作」第六十一号「五中物語・創立期」より)また先生は、ロマンチスト且つ詩人であられた英語の教師で先生のお考えは校歌のあらゆるところ(例えば四番の科学、立志、開拓、創作)に表われている。これらは、今でも小石川の根底を流れている重要な要素となtっている。

作曲者は、北村季晴先生。重々しく気品の高いメロディーは、伝統を誇る本校の校歌にはまことにふさわしく、先生のお人柄がしのばれる。

以上が校歌誕生のあらましだが校歌については次のようなエピソードも残っている

平和の光と 御陵威の光

戦前派、音楽は、一、二年の必修科目であり、一年の一学期のみ全員履修の音楽授業があった時代もあり、かつては全員が校歌を覚えたそうである。その為当時では、校歌は生徒達の愛唱歌的存在であり、同窓会などでは必ず歌われるということである。

しかし第二次大戦という大きな時代の波の影響で、この校歌も一部変更された。六番の「平和の光」のところが、「御陵威(みいつ)の光」つまり「平和」が「天皇の御威光」に一時期変えられて歌われたのである。このように昔は校歌の歌詞が重要視されていた。

歌詞の重要性 意味をつかむ

現在の”校歌離れ”の要因の一つに「歌詞が難解である」ということが挙げられる。そのため、国語科の鈴木先生に解釈をお願いし掲載させて頂くことにした。

校歌註疏 鈴木由次

日本武尊は第十二代景行天皇の皇子で東征の英雄。豊葦原(の瑞穂の国)は古代日本の美称。その昔日本武尊が開拓した地が、いまや帝都となっているというのであり、気宇壮大な歌いぶり。

武蔵野の自然と景観を歌う。だが今や流れは汚染され、富士の姿も見えなくなっている。

開拓の精神を鼓吹。鍬は開拓の縁語だが、「理想の鍬」とは何と大胆な表現であることか。

創作の精神を鼓吹。ゆかりの色は「紫の一本ゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今集)の紫草の色で、本校のシンボル・マーク。それにしても合理主義の科学と可憐な紫草の詩情を結びつけるとは、これまたまことに大胆きわまる表現ではある。

賀茂真淵の「信濃なる菅の荒野を飛ぶ鷲の翼もたわに吹く嵐かな」に拠るか。信州の風景が出てくるのは、伊藤校長が長野県出身だからで、なんとも強引な詠み込みぶりである。

五洲は五大洲で全世界、八洲は大八洲で日本列島のこと。一番の国粋主義は色褪せたが、六番の海外雄飛の精神は戦前の幾層倍にも振っているようである。

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 50年記念誌 半世紀 3ページ欄外