1969年度 (昭和44年度)

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できごと

4月1日 井上義夫 校長着任(前任:秋川高校校長) [1][2][3]

この当時の駕籠町交差点の様子
職員室内で囲碁を楽しむ教職員(春ごろの撮影と思われる)

4月1日 松元俊雄教頭着任(昭和44~46年度) [4] 訃報(松元俊雄氏、1977年6月30日に肺炎のため逝去)より

4月8日 入学式(男子300、女子137、計437名)[2][5]

4月8日 午後、始業式 [2][5]

4月22日 1・2年、実力テスト。3年は普通授業[2][5]

4月23日 結核検診 [5]

4月23日 身体検査 [2][5]

4月24日 早朝、体育館南東隅に縊死体発見。後刻、他校生の自殺体と判明 [2]

5月1日 芸術鑑賞会(於・武蔵野音大ベートーベンホール) [2][5]

5月4日 開校記念日 [5]

5月13日 第1回一三会(五中13回卒業(昭和11年の卒業生)同期会)[6]

5月14日 遠足 [5]

5月24日 PTA総会 [5]

5月26日~28日 中間考査 [2][5]

5月31日 愛知外相訪米阻止羽田デモで、本校生徒1名逮捕 [2][7]

5月31日 男子バレー部関東大会8位(記事中は第9位とある)[1]

6月4日 雨天のため春の遠足中止(秋に延期)[2]

6月7日 紫友法曹会 発足。第一回会合を紫友会館日本間で開催(同窓生で法曹界に身を置く者の集まり。以後2年に1度くらいの頻度で会合)[8]

6月14日 放課後、生徒有志が“樺美智子追悼集会”(沈黙打破の会主催)を開く。これに合流しようとして来校した他校性十数名を教員が説得して帰す [2]

6月17日 3年模試。1・2年生は普通授業 [2][5]

7月8日~14日 学期末考査(60周年記念誌には「7月8日~11日」とあり次の記載からも11日までと思われる) [2][5]

7月11日 期末考査終了後、夏季クラブ合宿・保田臨海生活参加希望者検診[2]

7月19日 「創作」第83号発行 [1]

7月19日 終業式[2][5]

(夏季休業中)夏季講習 [5]

(夏季休業中)クラブ合宿 [5]

(夏季休業中)水泳講習 [5]

(夏季休業中)保田水泳寮開設 [5]

9月1日 始業式 [2][5]

9月1日 始業式終了後、1・2年、夏休み数学宿題テスト [2]

9月 結核検診(中旬)[5]

9月 全共闘準備会結成され、本校における紛争始まる [3]

9月3日 小石川全共闘準備会が「(大学)全共闘結成に呼応して、高校生独自の集会を」の立看を出し、「9・5集会参加への呼びかけ」を行なう [2]

9月4日 SHR時、校長放送で、9・5集会不承認表明。第6校時の臨時生徒総会でも、一部生徒による9・5集会開催反対を決議 [2]

9月4日 生徒総会で林自治会会長が辞任表明(9月10日付で正式承認)[9]

9月5日 赤いヘルメットをかぶった高校生一団37名が正門内に侵入 [7]

9月5日 高校解放戦線(HFL)と竹早のノンセクト38名(他では37名)のデモ隊が正門より入る(9・5集会) [9]

9月5日 午前中授業、午後の授業をカット。但し警備の虚をつき、午後1時頃に赤ヘル高校生一団37名が正門内に侵入し不承認の集会を強行。教員の説得と、一般生徒の抗議にあって20分後に退去 [2]

9月20日 SHR時に、“9・5事件”に関する校長見解を校内放送 [2]

9月24日~25日 3年模試(国立大入試形式に合わせて2日間)。1・2年は普通授業 [2][5]

9月27日 「創作」第84号発行 [9]

9月27日~28日 創作展 [2][5][10]

9月29日 芸能祭(於:文京公会堂) [2][5][10]

10月5日 体育祭 [2][5][10]

10月11日 全闘連が「四項目」(9・29に立看で掲示)に関し、学校当局に「大衆団交要求書」提出 [2]

10月15日 昼休時、学校側が“一部生徒の質問に答える会(いわゆる“団交”①)”を開く [2]

10月16日 昼休時“団交②”。終了後、全闘連2名(のち更に2名参加)ハンスト突入 [2]

10月20日 学校当局が「四項目」に文書回答。その後も2回“団交”あり [2]

10月24日 不足授業時間確保のために、30日から実施予定の中間考査中止発表 [2]

10日25日 職員会議で“教育問題検討委員会(略称・教問検)”設置決定。教育課程・評価問題等につき再検討開始 [2]

10月30日~11月1日 中間考査 [5]

11月5日 秋の遠足(春の遠足が中止だったため) [2]

11月6日 全生徒にプリント「われわれは話し合いによる改革を提案する」を配布 [2] [3][10]

11月16日 佐藤首相訪米阻止デモで、本校生徒3名逮捕 [2]

11月18日~19日 模試(3年)[5]

11月27日~28日 3年模試(国立入試形式に合わせて2日間) [2]

11月29日 生徒会評議会が“学校改革のための特別委員会(略称・改革委)”設置を決定。翌年1月までに2年2クラスを除き、各HRから委員を選出 [2]

12月13日~17日 学期末考査(終了後も3年は23日まで授業継続)[2][5]

12月20日 「創作」第85号発行 [10]

12月25日 終業式 [2][5]

12月25日~30日 スキー講習、夜行で出発(於・志賀高原。5泊6日) [2][5]

1月8日 始業式 [2][5]

1月17日 強歩大会(1回目)狭山湖1周。男子13~15㎞、女子6~7㎞ [2] [11]

1月24日 改革委の要請に基づき、担任が各HRで学校側の“改革の趣旨”を説明 [2]

1月26日 全闘連が「改革委に革命的に介入せよ」のビラをまく。以後、ヘル姿で屢々改革委に乱入し審議を妨害 [2]

1月31日 学校当局が全生徒にプリント「カリ改革提案(改革の根拠と目標)」を配布 [2]

2月 カリキュラム改革をめぐる紛争も起り、全生徒にプリント「全校生徒諸君に」を配布 [3]

2月9日 授業打ち切り(3年)[5]

2月10日 全闘連が「改革委の学校との癒着弾劾、学校との全面対決」のビラをまき、改革作業妨害を更に激化 [2]

2月20日 学力検査。竹早高新築工事のため、男女共、全員本校で受験。ビラ配りに来た生徒数人、教員に説得され帰る [2]

2月25日 学校当局が全生徒にプリント「全校生徒諸君へ」を配布 [2]

2月28日 全生徒に「ガイドブック(選択講座の内容紹介)」配布。放課後“質問に答える会”を開く [2]

3月1日 「開拓」第56号発行 [12] 

3月 講堂改修完成 [3][13][14]

3月6日~10日 学期末考査 [5]

3月6日~10日 期末考査(全闘連が期末阻止に実力行使を唱えるも、結果的には全員受験。終了後、学校当局が「新カリ実施宣言」。全生徒にプリント「新カリ実施に当って」を配布し、本調査票を渡す)[2]

3月14日 「創作」第86号発行 [11]

3月14日 卒業式(男子314、女子132、計446名)[2][5]

3月20日 終業式 [5]

3月20日 修了式[2]

3月23日~29日 2年修学旅行(4泊5日)、四国方面へ1班、翌日2班、翌々日3班がそれぞれ出発[2][5]

教職員一覧

職名 教科目 氏名 担任 校務分掌 クラブ顧問 PTA・紫友会
校長 井上義夫 紫友会理事長
教頭 社会(倫理・政経) 松元俊雄 P副会長・紫理事
教諭 国語 市毛勝雄 1G 職員会議議長 男子バレー
大平浩哉 生活指導(長) ラグビー・野球 P委員
金津秀一郎 1C 学年主任 水泳・ラグビー P委員・紫監事
木村博 人事(長) 写真研 P委員
鈴木由次 3E 人事・学習指導 山岳
西川朝彦 生活指導 女子バレー
森下千代 生活指導 フォークダンス
吉田良夫 2D 教務 演劇研
社会 倫社・政経 川野健二郎 3A 学年主任 ワンダーフォーゲル P委員・紫理事
世界史 小沢正男 生活指導 開拓
佐藤三夫 1I 学習指導
日本史 野田幸三郎 学習指導
毛利和夫 2G 生活指導 新聞
地理 斉藤薫 運営(長) 剣道 P書記・紫理事
高野繁 2H 運営 男子バスケット
数学 青木太夫 1A 保健 野球
上野禮一郎 保健
国枝久士 3G 運営
竹内誠吉 教務 ワンゲル・数理研
田辺仁士 生活指導 軽音研
留岡亮二 3D 学習指導(長) バドミントン・鉄研 P委員
橋本弘子 2B 教務 卓球
三和一雄 運営・予算(長) サッカー 紫理事
理科 物理 江渡明穂 学習指導 電波研
佐々木晴彦 3I 生活指導 電波研
松村清 教務(長) テニス P委員
化学 住谷正夫 職員会議議長 化学研・落語研
竹野博 2I 学年主任 男子バレー P委員・紫監事
長谷川俊明 3H 教務 化学研
地学 土屋龍雄 1D 教務 天文研・剣道
生物 大滝末男 2C 生活指導 生物研・水泳・スキー
春田俊郎 1B 人事・生活指導 生物研・山岳・社研・スキー
保健体育 熱田恵司 1H 教務 男女バスケット
千葉芳弘 保健(長) 柔道・ラグビー P委員
西中良夫 2E 運営 体操・ラグビー
三澤好章 3B 生活指導 サッカー
馬上キミエ 3C 学習指導 陸上
芸術 美術 大勝恵一郎 2A 人事・学習指導 美術研
工芸 前田泰彦 保健
音楽 横田勇 教務 音楽研
外国語 英語 新貢治 運営 P委員・紫理事
石川昌 生活指導
井上喜八郎 人事・保健
大滝宗一郎 1E 生活指導 柔道
鈴木宏 教務
田島敏雄 3F 保健 陸上
三浦訖 2F 学習指導
山名盛義 1F 学習指導 英語研・インターアクト
家庭 大町淑子 保健 生活・華道
司書 面川洽治 学習指導
養護 大宅三恵子 保健
講師・校医
教科 氏名
講師 国語 寺田純子
守屋禎次
社会 政経 阿部由紀
倫社 米永政彦
世界史 増谷英樹
数学 伊藤和雄
書道 加藤達成
平川愛季子
家庭 佐々木重子
保健体育 新藤宏子
外国語 英語 Ivan Bell
独語 布施敬二郎
校医 内科 中村脩
耳鼻咽喉科 工藤シノブ
眼科 村尾勉
歯科 橋本八郎
薬剤師 高木重長
事務職員関係
職名 氏名 分担 PTA・紫友会
事務長 渡辺利三 統括 P委員・紫理事
事務主事 有賀清之助 庶務
岩崎弘 管財・物件費 紫書記
加藤直子 歳出
佐々木君子 歳出
竹内節子 外郭団体会計
峰岸誠 消耗品受払・奨学金
事務主事補 多胡奈都子 歳入
用務員 上原桑吉
鈴木弥太郎
吉田治男
警備員 高見芳美
望月季美
業務員 鈴木卓三 理科
助手 片岡雪夫 事務
水道一敏 理科
手塚悦子 教務
野村宏 教務
尾崎正則 図書

生徒在籍数

A B C D E F G H I
1年 32 34 34 34 34 32 32 34 34 300
16 15 15 15 15 16 16 14 15 137
48 49 49 49 49 48 48 48 49 437
2年 35 35 34 33 34 34 34 34 35 308
15 15 16 17 15 16 16 15 15 140
50 50 50 50 49 50 50 49 50 448
3年 35 35 35 35 35 35 35 36 34 315
15 15 15 15 14 15 15 14 15 133
50 50 50 50 49 50 50 50 49 448

芸能祭

9月29日開催

体育祭

10月5日開催

私が二年生になった時、三沢先生から「体育委員長をやらないか」との話があり、当時生意気盛りの私は「現在の教育は知育に偏り過ぎている」と大上段に被り、「体育振興5か年計画」なるものを作成。第一年目として「体育祭を面白くしよう」「郊外で全校生徒が走る機会を設けよう(これは後に「強歩大会(1回目)」として実現)」などと企画しました。

一年生の時の体育祭は、事前の球技などの得点から大差がつき、体育祭での加点が勝敗にあまり影響せず、盛り上がらなかったので、体育祭に新たな競技を増やしたり(女子綱引きや女子大玉ころがしや参加者増をねらった三十人リレーなど)、得点配分を増やして体育祭当日の競技で勝負を決する(競う)様にしました。

・女子大玉ころがし:大玉の製作を体育系クラブに依頼、多くの場合は竹の骨組みに紙を貼った大玉だったが、事前の乾燥が不足した為に競技中に紙が剥がれ落ち骨組みの竹で怪我をする女子が続出した。そこで配点を中止したところ、女子全員からにらまれてしまいました。サッカー部の作った大玉は問題がなく(紙ではなく布を貼っていた)、顧問の三沢先生が自慢していました。

・騎馬戦:事前の職員会議ではケガ人が出ない様にとのことで(これは体育祭を含め次の強歩大会も同様)、最初は帽子を「取りあう」ルールにして、その旨三沢先生にも報告していた(職員会議でもその旨の説明がされていた)が、それでは面白くないとの意見が生徒間で強くなり、体育祭当日に急きょ相手の騎手を落とすルールに変えてしまった。急きょの変更により、騎馬の周囲で騎手が落ちて怪我をしないように支えてくれた先生方には迷惑をかけてしまった。最後に大将同士の一騎打ちとなり、皆かたずをのんで見守っていたところ、いきなり一方の騎手が相手の騎手を殴って反則負けになり、唖然としてしまった。

・三十人リレー:クラスから三十人が参加、一人がトラック半周、15周のリレー、時間がかかるものでした。教員からの指導で女子は四名までとされ、走者の確保にどのクラスも苦労しました。9コースのセパレートコースを急きょ作らなければならなくなったことから、コースの線引きを前日にやり、外側のコースと内側のコースのスタート時のハンデイの距離を巻き尺を踏んで測り、スタート位置を決めていたところ夜になってしまいました。校長先生が一人で近寄ってきたので、私たちは「夜遅くまで大変だね」といったねぎらいの言葉を期待したのですが、校長先生の口から発せられたのは、「君たち、その距離の測り方は、数学的に間違っているよ」という言葉でした(昭和44年度体育委員長023E綿貫茂)。

創作展 (第00回)

9月27日、28日の2日間

開拓 (第56号)

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政治的活動

生徒自治会が配布した竹早高校での政治活動を紹介したビラ

大学生の先輩などを通じての影響で当時の社会情勢を反映し小石川高校にもほぼ全てのセクトが揃っていた。

5月18日 生徒自治会、中央委員会が竹早高校での政治活動の様子を伝えるビラを配布。

9月3日(水):小石川全共闘準備会が 「(大学)全共闘結成に呼応して、高校生独自の集会を」の立看を出し、「9・5集会参加への呼びかけ」を行なう

4日(木):SHR時、校長が放送で、9・5集会不承認を表明。第6校時の臨時生徒総会でも、一部生徒による9・5集会開催反対を決議

5日(金):午前中授業、午後の授業をカット。但し警備の虚をつき、午後1時頃に赤ヘル高校生一団37名が正門内に侵入し不承認の集会を強行。ヘルメット学生による集会とその後自然発生的に起きた一般生徒の自主的な集会の様子を記録した写真が神谷健二(022A)から提供された。

四項目要求に対する回答

 1969年9月5日「全都高校生の連帯集会」という集会が校内で開催されるという情報があり、午前10時ごろ、数十名のヘルメット覆面姿の他校生が校門前からハワイに向かってデモ行進した。校舎前は騒然となり授業は中断、3年生を中心とした在校生はデモ学生を取り囲み「帰れ」コールが起こり、集会は流会となる。

 その後、全共闘準備会が全校集会を要求し、学校側が対応に苦慮していく。1969年10月20日に「四項目要求に対する回答」と題する意見を学校側が提示した。

 全斗連の諸君から提起された四項目要求をめぐって、ここ数日来、学校全体が不安定で平常の学習環境がかなり乱れている状態にあります。私たちは相互の理解を深め、1日も早く事態の収拾につとめたいと念願し、150余名の署名に基づく大衆団交の要求に対して、先週水曜の午後、「一部の生徒の質問に答える集会」をもち、さらに引き続いて話し合いを重ねていく考えでおりました。

 しかしながら第一時限から団交をひらけという全斗連の要求に対して、私たちは一般生徒の意見も十分反映するように議長選出について条件をだしました。しかし合意にいたることはできませんでした。そこで全斗連の諸君はハンストという非常手段を背景に私たちに要求の承認を求め本日にいたっています。

 四項目要求については、すでに10月2日の朝礼の際に明確に答えておきましたが、この機会に私は改めて学校としての回答を明示しておきたいと思います。

 第1に、9月20日の校長放送を撤回し自己批判をせよということですが、私は現在でも訂正しなければならぬようなことはないと信じております。私があの放送で話したのは、「現代のような流動的な社会環境の中にあって、政治問題や社会問題に対して無関心であってはいけない。問題意識を高めて勉強してほしい。ただ一つの角度からだけ眺めたり、特定の思想に基づいた政治的党派集団に属したりして直接行動にでるということは厳につつしんでほしい」ということであります。9.5にみられたような,他校生を本校によんでの特定の党派的集団による集会を認めることは、極右から極左までのあらゆる集会を認める結果となり、今後この小石川高校という教育の場をはなはだしい混乱におとしいれる原因ともなります。

 全斗連の抗議にあるように、「高校生の政治活動はすべて悪である」と一方的にきめつけたわけではありません。

 いったい、政治的活動ということばの意味する内容やその範囲はきわめて広く、単純に定義づけたり規定したりすることは困難であります。たとえば学校によっては、校内で安保反対のビラをくばったり、討論会を開いたりすることも禁止しているところもあります。同じ政治活動といっても、このようにビラをくばったり討論会を開く程度のことから、デモ、集会への参加、あるいは、まあたらしく報道されている公共機関への襲撃といったような、まったく過激な直接行動にいたるまで、目的や意図、手段、方法において複雑多岐にわたっているのが実情であります。

 したがって高校生の政治活動はよいとかわるいとか、一律に規定してしまうことは、きわめて危険であり、また教育の任にあたる者としてかえって無責任な態度になると考えます。社会や政治に対する関心と認識を高めることを前提として、やはりそれぞれの時点において現実の問題としてさまざまな角度から妥当な判断に立って、高校生として参加すべきか否かをきめていかざるを得ません。また、現在の社会では価値観そのものが流動的であるために、正か否かをはじめからきめてかかることは、私たちがいずれかの立場に加担することにもなることを十分理解してもらいたいと思います。このように考えてきますと正か否かという二者択一の性急な結論は出し得るはずはありません。

 また、高校生として許される政治活動の限界を示せという要望もありますが、上述のように政治活動そのものの内容や段階が複雑にわかれている以上、どの線までならよいと安易に限界を示すことは慎重を要し、はげしい流動を続ける現代社会に対処する賢明な方法ではないと思います。

第2に、9.5で学校がなぜ授業を午前中で打ち切って全生徒を帰宅させようとしたか、いわゆるロックアウトしたことについて自己批判せよという問題について回答します。

 私たちには、あの当日いったい何人の外部の生徒が、どのような装備でやってくるのか、いっさい不明でした。「全都高校生の連帯集会」というような名称であったため、場合によっては1000名以上集まる可能性も考えられるほどでした。集会の内容について実行委員の生徒に尋ねてもまったく教えてくれませんでした。したがって本校生徒との間にトラブルが起こって思わぬ事故が起こることも考えられる状態におかれておりました。

 あの場合、結果からみれば、彼らが予定よりも早く来、また規模が小さかったし、その後予想された後続部隊も来なかったので、私たちのとった方法や行動については適切でない点があったかもしれません。また居残った生徒に対する私たちの指導に不徹底な点があったことについても反省しなければならないと思います。しかし原則的に云って、多くの生徒諸君を預っている学校として、まず、生徒全員の安全を守るために万全の措置を講ずるということは当然のことであると考えます。

 第3に、今後もいっさいの処分をしないという保証をせよという要求についてお答えします。本校はいかなる場合も機械的な処分を軽々しく行なうことは考えていません。可能なかぎり、許すかぎり、それらの諸君と話し合いを続けていくということが、私たちの基本的な立場です。しかしたとえば学校の器物がいちじるしく破損されたり、暴力などによって生徒諸君に危害が及ぶなどのことが万一起これば、そのような行為に対する責任はとってもらわなければなりません。

 したがって、諸君が「いっさいの処分をしない保証をせよ」という要求をするのではなくて、むしろ諸君こそ、私たちをしてやむなく処分をしなければならないような状況に追いこむことのないよう自重してほしいと思います。

 第4に掲示、集会の許可制を撤廃せよとの要求に対してお答えします。掲示、集会の自由は、諸君の要求をまつまでもなく、憲法に示されているとおり、「一切の表現の自由はこれを保障」しなければならないと考えます。しかし、すべての権利がそうであるように、表現の自由という権利も他の権利と同様に抽象的空間に浮遊しているのではありません。「一切の表現の自由を保障する」からといって、それが他人の自由を侵す権利にはならないのです。社会が多数の人間によって構成され、われわれや諸君がそこにいるかぎり、権利の濫用がいましめられるのは当然のことでしょう。私たちや諸君が何を考え、どんな信念をもとうと、それについてだれからも干渉をうける理由はありません。しかしそれが社会的行為として他の人間とかかわりをもつ段階においては、相互の権利の間に何らかの調整が行なわれなければならないと考えるのもまた当然のことでしょう。なぜなら、個々のすべての人の権利は平等であるべきだからです。したがって権利の実現は平等な関係においてのみありうることで、その意味でこの問題に関して私たちは、諸君とわたしたちの問題を、大人と子供の問題としてとらえる立場をとるものではありません。私たちはこれを諸権利間の調整と考えます。それを民主的妥協とか自由にともなう責任とかよんでもよいでしょう。

 学校が主体的な思考の訓練の場であるとすれば、学校そのものがいずれかの価値観に加担してその宣伝者になることをできるかぎり意識的積極的にさけるのが当然であり、そうしなければならないと考えます。したがって、その場合に私たちが果すべき役割は平等な諸権利間の調整者であり、この調整者としての立場を回避すべきではないでしょう。もしそうでなければ、弱者の権利を事実上みごろしにすることになるでしょう。平等のないところで自由を強調することは不平等を大きくするといわれます。学校は諸君とともに権利の調整者としての責任を進んで負うものであります。権利間に衝突が起きた場合、自由の名のもとに関知せざる態度をとるということは許されない無責任な態度であり、現実の問題処理を放棄するものといわなければなりません。すでに何度ものべてきましたように、本校の掲示集会に関する規約は実質的には届出制に近いかたちで実施されてきていることは、多くの諸君の認めるところだろうと思います。それは現在までのところ諸君や私たちが権利の調整者としての責任を大過なく果してきた証拠と考えてよいのではないでしょうか。  

  あとがき

〔学校側の答弁があいまいだとの印象について〕

 10月15日(水)のいわゆる“大衆団交”における学校側の答えをはじめ、先生方の答えがあいまいであり、逃避しているのではないかとの声もあるときいています。この機会に、そのことについての見解をつけ加えておきます。

 現実に政治活動がおこなわれ、これを認めるか認めないかについて一般的な原則をたて、これによって是非を判定することは、一見きわめて明快な満足感を与えるように思われます。しかし、学校はそのようなやり方は非現実的であると考えます。また責任ある良心的なやり方だとは考えません。

 なぜなら、よいかわるいかを決めることは、ある一つの価値体系を積極的に肯定することにほかなりません。現在のように体制的といわれる価値観が批判されている時点において、私たちもまたすべての問題をいわゆる体制的価値観のみにこだわって、その是非を判断することにためらいをおぼえると同時に、一方反体制的といわれる価値観に立って判断を下すことにも、私たちはより以上に慎重たらざるをえないのです。それは未来の側からなされる判断であり、未来のそれであるがゆえに極めて多様でありうるのです。極右から極左にいたるまでさまざまなのです。そのどれをとるかは問題ではありません。なぜならある時期に、ある一つの価値観によって下される判断が正しいか否かは時の経過のみが決定しうることだからです。現時点での特定のイデオロギー的な断定は、それに確たる信念を持つものが、そのつよい信念の表明として行なう場合にのみ意味をもつかもしれないが、現実の場で現実の具体的問題を処理するための判断として行なわれるとすれば、無責任のそしりをまぬがれないでありましょう。

 学校が二者択一的回答を要求されたとき、ためらい迷い諸君の眼からみれば、あいまいでにえきらないとも思われる答えを出すのは、いたしかたないことであります。ためらいつつも問題処理の根拠を求めなければならないとすれば、私たちに許されるのは現実におこり、またおこるであろうと切実に考えられる経験的事実のみでありましょう。

 だから基本的に私たちはむしろ積極的にこのような態度を守っていくでしょう。                               おわり

1969.10.20.                都立小石川高等学校

強歩大会(1回目)

学校行事として主に一年生と二年生が参加した学校行事。この年度と翌年度のみ行なわれた。発端は体育祭の項目に記載した「体育振興5か年計画」。

昭和44年度:昭和45年1月17日 強歩大会(1回目)狭山湖1周。男子13~15㎞、女子6~7㎞

昭和45年度:昭和45年11月7日 強歩大会(2回目)多摩湖1周。男子13㎞、女子8㎞

「強歩大会」の「強歩」ですが、「マラソン」とか「競歩」の様に競争するのではなく歩いてもよいからという先生方の指導によるものです。何が起こるか分からない、先に述べたとおりケガ人を出さない様にとの指導を受けました。 前日、三沢先生と一緒にコースへ行き、背中に石灰を入れたライン引きを背負って全コースを自転車で回って、分かれ道に矢印を書いてきたことが思い出されます。 当日は雨でしたが、現地は雨が降っていないとの情報から決行されました。 このような思いつきに近い企画が学校行事として実施されたのは、今考えると予算をどうしたのかなど不思議な思いがしています。 高校生の分際で池袋の西武鉄道の本社に行き交渉して、臨時の電車を二本走らせてもらって全学年の参加者を運んでいます。当日登校してきた三年生にも参加を呼びかけました。ゴールするところで3D菅原さんがグループで大きな旗を立てて元気に帰ってきたことを覚えています(昭和44年度体育委員長023E綿貫茂)。

スキー同好会に入っていた住田くんと藤崎くんはスキーを持って参加、終了後そのまま狭山スキー場に行って滑ってきたそうです。私自身は走らなくて済むということで自分から記録係を引き受けました。中間地点で待機していて、走ってきた生徒にそれぞれの通過タイムを教えるという役割でした。走らなくて楽だと思っていましたが、逆に懸命に走っている同級生たちが羨ましくなりました(023A武藤安隆)。

関連事項

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 「創作」第83号
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 2.23 2.24 2.25 2.26 2.27 2.28 2.29 2.30 2.31 2.32 2.33 2.34 2.35 2.36 2.37 2.38 2.39 2.40 2.41 2.42 2.43 2.44 2.45 2.46 2.47 2.48 2.49 2.50 2.51 60周年記念誌
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 70周年記念誌
  4. 紫友同窓会会報No.5
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 5.13 5.14 5.15 5.16 5.17 5.18 5.19 5.20 5.21 5.22 5.23 5.24 5.25 5.26 5.27 5.28 5.29 5.30 5.31 5.32 5.33 高等学校「学校要覧」昭和44年度
  6. 紫友同窓会会報No.15
  7. 7.0 7.1 「創作」第113号
  8. 紫友同窓会会報No.6
  9. 9.0 9.1 9.2 「創作」第84号
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 「創作」第85号
  11. 11.0 11.1 「創作」第86号
  12. 「開拓」第56 号
  13. 「創作」第134号
  14. 紫友同窓会会報No.41