橘純一

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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橘純一(たちばなじゅんいち)(1884年~1954年)は、江戸期後期の国学者で初代教頭(主席教諭)。

概要

橘家初代の橘守部(1781年~1849年)から数えて四代目(養子)。

東京帝国大学を卒業して、文科大学助手(1911年~)ならびに陸軍教授(1913年~)を務めていた橘を、五中創立時に伊藤長七がまず教諭として引っ張ってきた。

創立時(1919年3月)から6年間教頭として在籍し、五中2期生卒業後の1925年(大正14年)4月に五中を退職(そのため1期2期卒業生アルバムが二松学舎大学に橘家から寄贈されていることが平成17年の伊藤長七部会による調査でわかった)。

1928年(昭和3年)に開設された二松学者専門学校(二松学者大学の前身)の初代国学科主任(専任教授)に就任。以後、1941年(昭和16年)に陸軍教授に再任されるまで同職を務め、戦後の同学校の大学化にも貢献した。1954年(昭和29年)に跡見短大教授在籍のまま亡くった際には、歌人佐々木信綱が「かなしきかも守部の大人の後をうけて道きはめまさむ君とおもいひしを」の弔歌を詠んだ。

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