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* 昭和26年 - 4月30日 憲法記念大会の2回戦で都立第三商業と対戦したが、1対2で惜敗(この大会は都立第三商業が優勝)。夏休みに千葉県の保田で合宿。11月に女子が初めて秋季大会に参加した。顧問:土橋、コーチ:福田光治 | * 昭和26年 - 4月30日 憲法記念大会の2回戦で都立第三商業と対戦したが、1対2で惜敗(この大会は都立第三商業が優勝)。夏休みに千葉県の保田で合宿。11月に女子が初めて秋季大会に参加した。顧問:土橋、コーチ:福田光治 | ||
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* 昭和27年 - 8月18日から24日まで、長野県志賀高原・発哺の御茶ノ水大学の寮で合宿。宿舎だけの借用で賄いはなかったので、女子部員4名に食事や洗濯の世話をお願いした。また、コートの場所だけはあったが、設備がなかったので、学校からポールやネットを持参しての合宿であった。OBと現役の会「五中クラブ」が発足。同心町校舎の狭くて天井の低い講堂での不自由な練習を解消しようと、駕籠町の焼け跡のグランドの隅に、瓦礫を取り除き、土砂を篩にかけ、手作りでコートを作った。顧問:土橋、コーチ:(男子)近藤誠男、(女子)橳島久光 | * 昭和27年 - 8月18日から24日まで、長野県志賀高原・発哺の御茶ノ水大学の寮で合宿。宿舎だけの借用で賄いはなかったので、女子部員4名に食事や洗濯の世話をお願いした。また、コートの場所だけはあったが、設備がなかったので、学校からポールやネットを持参しての合宿であった。OBと現役の会「五中クラブ」が発足。同心町校舎の狭くて天井の低い講堂での不自由な練習を解消しようと、駕籠町の焼け跡のグランドの隅に、瓦礫を取り除き、土砂を篩にかけ、手作りでコートを作った。顧問:土橋、コーチ:(男子)近藤誠男、(女子)橳島久光 |
2023年1月29日 (日) 15:59時点における版
バレー部は、昭和20年に創部された部活動である。
概要
1945年(昭和20年)体育の竹内利貞教諭を中心に同好会的なバレー部活動が始まった。正式な部活動として活動が始まったのは翌年の1946年(昭和21年)
沿革
- 昭和20年 - 4月13日夜の米機の爆撃により駕籠町の校舎が焼失し、一時学童疎開で空き家になった文京区明化国民学校に移転したが、11月には滝野川の陸軍の施設跡(旧東京第一陸軍造兵廠内青年学校)に再移転し、授業を再開した。この年、体育の竹内利貞教諭を中心に同好会的なバレー部活動が始まった。
- 昭和21年 - 正式な部としての活動が始まった。9月に東京文理科大学でバレーをなさっていた飯塚(めしづか)先生が体育の教諭として赴任。 飯塚先生の仲介で、第十高等女学校と親睦を深め、練習試合を行なったりした。(まだ戦後まもなくで、男女の仲の距離があった時代にしては珍しいことであった。[1]
- 昭和22年 - 飯塚先生の指導のもとに力をつけたバレー部は、この年の春の関東大会予選で決勝まで進出。この大会で本校の波多野収通(04回卒)が東京都のベストナイン(HC)に選出された。7月21日から31日 関東大会で対戦し親しくなった群馬県立渋川高校で合宿をおこなった。この合宿がバレー部の最初の合宿である。顧問:飯塚鉄雄
- 昭和25年 - 4月から本格的な男女共学になり、百名を越す女子生徒が入学し、バレー部にも多数の女子が入部した。8月10日から20日まで千葉県館山市の県立安房高校の校庭で合宿を実施。宿舎は同校の柔道場であった。戦後の食糧難の時代で、外食券を持参しての合宿であった。参加部員は9名。顧問:土橋、コーチ:福田光治
- 昭和26年 - 4月30日 憲法記念大会の2回戦で都立第三商業と対戦したが、1対2で惜敗(この大会は都立第三商業が優勝)。夏休みに千葉県の保田で合宿。11月に女子が初めて秋季大会に参加した。顧問:土橋、コーチ:福田光治
- 昭和27年 - 8月18日から24日まで、長野県志賀高原・発哺の御茶ノ水大学の寮で合宿。宿舎だけの借用で賄いはなかったので、女子部員4名に食事や洗濯の世話をお願いした。また、コートの場所だけはあったが、設備がなかったので、学校からポールやネットを持参しての合宿であった。OBと現役の会「五中クラブ」が発足。同心町校舎の狭くて天井の低い講堂での不自由な練習を解消しようと、駕籠町の焼け跡のグランドの隅に、瓦礫を取り除き、土砂を篩にかけ、手作りでコートを作った。顧問:土橋、コーチ:(男子)近藤誠男、(女子)橳島久光
- 昭和28年 - 春の関東大会予選で、ベスト16に入る。4月26日、駕籠町コートの落成記念として、現役とOBの親善試合を実施。「五中クラブ」として、春の大会に参加し日本鋼管と対戦、惨敗。この時の日本鋼管には松平康隆氏がバックで出場していた。8月23日から29日まで、松本市浅間温泉の県営運動場にて合宿。顧問:土橋、コーチ:(男子)近藤誠男、(女子)橳島久光
- 昭和29年 - 7月21日から30日まで、松本市浅間温泉の県営運動場にて合宿。女子が初めて合宿に参加した。顧問:土橋、コーチ:(男子)波多野義治、(女子)阿部元一
- 昭和30年 - 8月 松本市浅間温泉の県営運動場にて合宿。顧問:土橋、コーチ:(男子)高橋一郎、(女子)須永悦子
- 昭和31年 - 春の都大会でベスト8に入り、大宮で行なわれた関東大会に出場。
- 昭和32年 - 6月 現役生徒の試合を観戦したのち第1期工事が完成した駕籠街校舎の教室で「五中クラブ」総会を開催。
- 昭和37年 - 6月 前年に完成した体育館を利用して「五中クラブ」開催
- 昭和38年 - 富士見で合宿。このころに9人制から6人制へ移行。京華高校との対戦を北園高校の校庭で実施し2対0で敗戦
- 昭和39年 - 富士見で合宿。
- 昭和44年 - 水戸体育館で行われた関東大会に出場し、ベスト16
五中クラブ
1952年(昭和27年)に日本鋼管との試合のため発足したバレー部の現役生と卒業生で構成されている組織。毎年6月ごろにその年の卒業生が幹事として定期会合を開き、交流試合など現役高校生や卒業生の交流を行うことが多い。また五中クラブから派遣コーチを出している。
長らく代表者や運営責任者のようなものが存在しない団体だったが、責任ある組織体にしたほうが現役生の後援活動など学校側と打合せなど活動しやすく充実した支援ができると考え、2003年11月29日臨時会合を開催して組織形態を明確にした団体になった。
成績
昭和28年 春の関東大会予選 ベスト16 昭和31年 春の都大会 ベスト8、関東大会出場
脚注
- ↑ 香田則彦(旧制25回卒)談