「佐々木純一」の版間の差分
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*校長在任時は、生徒急減期、そして私学志向の高まり(都立離れ)の中、強烈な危機感を抱いていた。また、そんな状況の中、小石川の伝統の教育方針である「多くの規制を加えずに生徒の自主性を尊重し、その中で一人一人の持つ可能性を大きく伸ばしていく」ということが、本当に生徒の実態に即したものであり続け得るのか危惧していた。<ref name="siyuu19"> 紫友同窓会会報第19号 </ref> | *校長在任時は、生徒急減期、そして私学志向の高まり(都立離れ)の中、強烈な危機感を抱いていた。また、そんな状況の中、小石川の伝統の教育方針である「多くの規制を加えずに生徒の自主性を尊重し、その中で一人一人の持つ可能性を大きく伸ばしていく」ということが、本当に生徒の実態に即したものであり続け得るのか危惧していた。<ref name="siyuu19"> 紫友同窓会会報第19号 </ref> | ||
*生徒達には以下のように話していた。「人間としての信頼関係に立って学校は自由を多く認めている。自由とは、実にいい責任感の上に成り立つことをぜひとも自覚して欲しい。」<ref name="sousaku155"> 「創作」第155号(1991年7月1日号) </ref> | *生徒達には以下のように話していた。「人間としての信頼関係に立って学校は自由を多く認めている。自由とは、実にいい責任感の上に成り立つことをぜひとも自覚して欲しい。」<ref name="sousaku155"> 「創作」第155号(1991年7月1日号) </ref> | ||
− | * | + | *退任の挨拶で以下のように語っている。「『立志・開拓・創作』の優れた校是の下、自律の精神に裏付けられた自由を尊重する小石川の校風は、教育の原点そのものである。過保護や進学競争激化の風潮の下、表面的利害にのみ目を向けようとする人の多い中、至難であるかもしれない。しかしこの灯だけは是非とも守り続け、更に大きく発展させ続けていただきたいものと強く願います。」<ref name="siyuu21"></ref> |
*在任中、「七十周年誌」における差別用語問題の表面化、通学路の安全確保を図る上での近隣とのトラブル再発などが起き、それらの処理に振り廻されることが多かった。<ref name="siyuu21"></ref> | *在任中、「七十周年誌」における差別用語問題の表面化、通学路の安全確保を図る上での近隣とのトラブル再発などが起き、それらの処理に振り廻されることが多かった。<ref name="siyuu21"></ref> | ||
*在任最後の年は、都や全国の高校長協会等の仕事で学校を空けることが多かった。<ref name="siyuu21"></ref> | *在任最後の年は、都や全国の高校長協会等の仕事で学校を空けることが多かった。<ref name="siyuu21"></ref> |
2018年9月1日 (土) 19:08時点における版
佐々木 純一(ささき じゅんいち)は、東京都立小石川高等学校校長(第13代)
経歴
昭和25年4月 新制5期生として都立小石川高校に入学
昭和36年から4年間 定時制高校に教員として勤務する傍ら、週2~3日程度、小石川高校(全日制)の教壇に立つ
平成3年4月 東京都立八王子東高校校長から都立小石川高校校長に着任
昭和3年6月 伝統の力を継承しつつ実態に即し学校の活性化を図るため「教育問題検討委員会」を発足
昭和4年3月 新校舎 第一期工事落成
昭和5年3月 定年退職(校長離任)
昭和5年4月 私立高校 着任
エピソード
- 高校生として在学していた小石川高校の印象を以下のように書いている。「震災で駕籠町の校舎を失い、流転の後、同心町の老朽した建物に居を構えていた当時、戦後の混乱・物資不足の影は未だ尾を引いており、小石川工業ほか幾つかの学校との同居生活であった。教室の壁は煤けて薄暗く、それだけでも息苦しい雰囲気ではあった。しかし、府立五中以来の自由を尊重する校風の中、生徒の活動は創意にあふれ活々としており、無能な私は往々にして気後れととまどいを感じつつも、そこで得たものは極めて大きかったと思っている。一言でいえば、生徒に教え込むよりも、自ら学び取らせる校風であった。」[1]
- 校長着任前、平成三年度入試において小石川高校が30名もの大量二次募集を実施したことに大変な驚きを感じていた。[1]
- 校長在任時は、生徒急減期、そして私学志向の高まり(都立離れ)の中、強烈な危機感を抱いていた。また、そんな状況の中、小石川の伝統の教育方針である「多くの規制を加えずに生徒の自主性を尊重し、その中で一人一人の持つ可能性を大きく伸ばしていく」ということが、本当に生徒の実態に即したものであり続け得るのか危惧していた。[2]
- 生徒達には以下のように話していた。「人間としての信頼関係に立って学校は自由を多く認めている。自由とは、実にいい責任感の上に成り立つことをぜひとも自覚して欲しい。」[3]
- 退任の挨拶で以下のように語っている。「『立志・開拓・創作』の優れた校是の下、自律の精神に裏付けられた自由を尊重する小石川の校風は、教育の原点そのものである。過保護や進学競争激化の風潮の下、表面的利害にのみ目を向けようとする人の多い中、至難であるかもしれない。しかしこの灯だけは是非とも守り続け、更に大きく発展させ続けていただきたいものと強く願います。」[1]
- 在任中、「七十周年誌」における差別用語問題の表面化、通学路の安全確保を図る上での近隣とのトラブル再発などが起き、それらの処理に振り廻されることが多かった。[1]
- 在任最後の年は、都や全国の高校長協会等の仕事で学校を空けることが多かった。[1]
- 小石川高校生として得た実感をもとに、生徒に対して何度も「高校時代をどのように過ごすかにより、その人の一生の価値観の基礎が固まると言っても過言ではない」と語りかけてきた。[1]
脚注
関連項目
前任 | 在任 | 後任 |
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馬場信房 | 郡司迪哲 |