「校舎の変遷」の版間の差分

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
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==駕籠町校舎==
 
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元は東京巣鴨病院の跡地。初代校長の[[伊藤長七]]は「ゴミ溜め、どぶ水の池 八重むぐら繁れる中に 末枯れの秋の野の八千草 それが私の身の丈をかくす位に生えて居る所に 新たに運ばれた材木が五六本横たへられてあつた。『開拓せねばならぬ』といふ心の声が其時から私を刺激した様に存じます」と語ったと言われている。
 
元は東京巣鴨病院の跡地。初代校長の[[伊藤長七]]は「ゴミ溜め、どぶ水の池 八重むぐら繁れる中に 末枯れの秋の野の八千草 それが私の身の丈をかくす位に生えて居る所に 新たに運ばれた材木が五六本横たへられてあつた。『開拓せねばならぬ』といふ心の声が其時から私を刺激した様に存じます」と語ったと言われている。
  
 
1945年 (昭和20年) 4月13日深夜から14日未明の空襲により、校舎全焼。
 
1945年 (昭和20年) 4月13日深夜から14日未明の空襲により、校舎全焼。
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==明化国民学校==
 
==明化国民学校==

2016年10月25日 (火) 19:44時点における版

駕籠町校舎

卒業生による回想図

元は東京巣鴨病院の跡地。初代校長の伊藤長七は「ゴミ溜め、どぶ水の池 八重むぐら繁れる中に 末枯れの秋の野の八千草 それが私の身の丈をかくす位に生えて居る所に 新たに運ばれた材木が五六本横たへられてあつた。『開拓せねばならぬ』といふ心の声が其時から私を刺激した様に存じます」と語ったと言われている。

1945年 (昭和20年) 4月13日深夜から14日未明の空襲により、校舎全焼。


明化国民学校

1945年 (昭和20年) 4月25日小石川区林町102番地 明化国民学校に疎開

同心町校舎

もとは小石川高等小学校・小石川工業学校校舎。1946年 (昭和21年) 11月1日、小石川工業学校全日制が小石川区林町44番地の林町小学校に移転したのにともない同年11月13日五中がここへ移転した。小石川工業学校(定時制)と同居。

小石川区(文京区)同心町20番地(現文京区春日2-9-5)

昭和2年4月4日起工、昭和3年3月25日竣工

校舎構造:鉄筋コンクリート造3階建及び地階

校地坪数:2402坪5合9勺

1957年 (昭和32年)に駕籠町校舎への移転が完了するまでの10年ほどがこの校舎だった。この校舎の時代に第五中学校、第五高等学校、小石川高等学校と校名が変遷している。

同心町校舎(昭和27年度卒業アルバム)

同心町校舎平面図(小石川工業学校 昭和16年)

小石川高等小学校跡銘版

駕籠町校舎

1948年 (昭和23年)9月に復興委員会設置され、校舎再建の検討が開始された。

1953年 (昭和28年)4月に駕籠町校舎被災講堂の屋根修理(含更衣室新設決定)。同年11月に小石川高校復興期成会結成(3か年計画策定)。

1955年 (昭和30年) 11月に駕籠町校舎、第一期工事完成、落成式典挙行。第1学年が駕籠町校舎へ移転し、引き続き第二期、三期工事着工。

1957年 (昭和32年) 4月に駕籠町校舎第二期、第三期工事完成。全学年駕籠町校舎へ移転

昭和30年代半ばの周辺の様子を神野藤昭夫(014B)は2016年に次のように振り返っている。

 校門(かつての都立小石川高校、今の都立小石川中等教育学校)の目の前は、不忍通り。須田町から江戸川橋へといたる路線を20番の都電が走っていた。すぐ左手は駕籠町の交差点。こちらは巣鴨車庫前から神保町をへて神田橋の方へといたる35番が走っていた。当時の白山通り、昔の中山道である。

  駕籠町の電停は、その後、千石一丁目と名をかえ、どちらの通りも拡幅され、さらに新しい白山通りができて、風景が一変、記憶と現実とを一致させることが困難になった。

関連事項

レンガ塀

脚注