「転地修養隊」の版間の差分
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夏休みを利用して学校を離れ、都会を離れて心身の鍛錬や知徳の修養をする行事。伊藤校長によると「夏休みは休みではない」のであって、学校における平生の生活と異なる地において、異なる練磨修養を積むのに都合の良いのが夏休みである、ということになる。そして平生の学校生活では存分に味わうことのできない農民や労働者の生活に飛び込んで、その気分を味わいながら労働の尊さ、金銭や生産物の尊さを会得し、机上の学問だけでは役立たないことを実際に経験させようとした。<ref name="furitukyouikusi">桑原三二著「東京府公立中学校教育史」昭和56年5月15日発行 (資)高山本店</ref> | 夏休みを利用して学校を離れ、都会を離れて心身の鍛錬や知徳の修養をする行事。伊藤校長によると「夏休みは休みではない」のであって、学校における平生の生活と異なる地において、異なる練磨修養を積むのに都合の良いのが夏休みである、ということになる。そして平生の学校生活では存分に味わうことのできない農民や労働者の生活に飛び込んで、その気分を味わいながら労働の尊さ、金銭や生産物の尊さを会得し、机上の学問だけでは役立たないことを実際に経験させようとした。<ref name="furitukyouikusi">桑原三二著「東京府公立中学校教育史」昭和56年5月15日発行 (資)高山本店</ref> | ||
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2019年5月27日 (月) 10:01時点における版
転地修養隊 (てんちしゅうようたい) は、初代校長伊藤長七の故郷である長野県北佐久郡志賀村を中心にして農村生活の体験をする活動。府立五中創立期から行われていた。
夏休みを利用して学校を離れ、都会を離れて心身の鍛錬や知徳の修養をする行事。伊藤校長によると「夏休みは休みではない」のであって、学校における平生の生活と異なる地において、異なる練磨修養を積むのに都合の良いのが夏休みである、ということになる。そして平生の学校生活では存分に味わうことのできない農民や労働者の生活に飛び込んで、その気分を味わいながら労働の尊さ、金銭や生産物の尊さを会得し、机上の学問だけでは役立たないことを実際に経験させようとした。[1]
第1回
第1回の転地修養隊は大正8年7月22日に出発。生徒は有志51名、職員は校長以下6名で、期間は2週間。修養地としては伊藤校長の郷里である信州の北佐久郡志賀村が選ばれた。法禅寺に宿泊し、日課は明けの鐘つき、庭掃除、炊事手伝い、夜警の他に、午前と午後の2回(約1時間半)の労働があった。労働は主に田の草取り、芋掘り、山林の手入れといったもの。[1]
大正十年
大正十年に行われた転地修養隊の様子を記録したアルバムが学校資料室に保管されている。
旅行日程によると
一年生は7月20日上野駅発、7月29日上野駅解散の10日間
二年生は7月20日上野駅発、7月31日上野駅解散の12日間
三年生は7月20日上野駅発、8月1日上野駅解散の13日間