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2017年3月22日 (水) 18:27時点における版
府立第五中学校時代
デザインは五中から美術学校(具体的な学校名がわかる資料がない)に懸賞募集を行ない、同校の岡田教授などが審査にあたった。応募作品78点の中から同校学生の中山修三氏のものが選ばれた。
五中の校章を定めるにあたって伊藤長七は古今集から「紫の一本ゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」という歌を引いた。伊藤長七はこの歌の本来の意味を超えて「紫草が一本咲いていたために、この殺風景な武蔵野も、一段と趣深く感じられる。」と新たな解釈を考えた。そしてどんな分野においても、この「紫草」のような存在になるようにと説いた。[1]
都立小石川高等学校時代
都立小石川中等教育学校時代
- ↑ 『創作』第62号第2面