「レンガ塀」の版間の差分
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校地西側には平成初期に行われた校舎全面改築でも手付かずで残った古いレンガ塀がある。このレンガ塀は東京府癲狂院(のちの巣鴨病院)が明治19年から大正8年までこの地にあった当時造られたものである。 | 校地西側には平成初期に行われた校舎全面改築でも手付かずで残った古いレンガ塀がある。このレンガ塀は東京府癲狂院(のちの巣鴨病院)が明治19年から大正8年までこの地にあった当時造られたものである。 | ||
2016年10月25日 (火) 21:49時点における版
校地西側には平成初期に行われた校舎全面改築でも手付かずで残った古いレンガ塀がある。このレンガ塀は東京府癲狂院(のちの巣鴨病院)が明治19年から大正8年までこの地にあった当時造られたものである。
東京府巣鴨病院(1903)明治三十五年東京府巣鴨病院年報によると移転当時の敷地坪数は1万7348坪8合3勺で明治34年1月に隣地3314坪5合4勺を購入(9月との説もある)し、さらに明治35年3月には隣地541坪7合を購入し、同年中に東側と北側を回れる通路を病院敷地に編入し明治35年末時点で病院敷地坪数は2万2154坪8合2勺になっていたという[注釈 1]。
巣鴨病院の予算書によると
明治35年度支出予算 2万7608円12銭5厘
うち
表門 木造明キ二間両扉及跼付 1箇所 55円
周囲煉瓦塀 地上高12尺壁厚1枚半 根石及ビ笠石据付 長330間 単価45円 14,850円(第1年度分 落成 明治36年6月21日)
明治36年度支出予算 6万838円77銭
うち
周囲煉瓦塀 地上高12尺壁厚1枚半 根石及ビ笠石据付 長270間 単価45円12,150円(第2年度分 落成 明治37年12月)
と病院周囲にレンガ塀を設置したとの記述があり、このレンガ塀の一部が校地西側に残っているレンガ塀であるとみられている。
巣鴨病院沿革
1872(明治5)年 養育院発足(本郷)、明治6年に上野護国院跡地に移転。
1874(明治7)年 養育院内に「狂人室」5室設置。東京府病院(芝愛宕下)設立。
1879(明治12)年 東京府病院が、養育院(養育院は10月10日に神田和泉町に移転)内で精神病者の治療開始=東京府癲狂院が発足。
1881(明治14)年 東京府癲狂院、本郷東片町(現在の )に移転。
1886(明治19)年 巣鴨駕籠町に移転。
1887(明治20)年 榊俶(さかき はじめ)東京帝国大学医科大学教授 癲狂院院長、癲狂院内に帝国大学医科大学精神医学教室が置かれる。
1889(明治22)年 巣鴨病院に改称。
1901(明治34)年 10月 呉秀三東京帝国大学医科大学教授、巣鴨病院医長(当時は事務長と医長の二頭制)を嘱託。明治37年4月から院長、大正8〜14年は松沢病院院長。
拘束具の使用禁止、「狂躁室」の廃止、作業療法の導入、外来診療の開始、および病院規則、看護人養成規則などの制定、など医療改革を進める。
開放的な医療を進めるために、敷地拡大(隣地の購入)、病棟新築を明治34〜36年にかけて行う。
精神医療改革を進めるに伴い、病院の拡張を図るが、駕籠町では不可能かつ作業療法(園芸、農耕等)にも不適であったため、収容患者1000人、約10万坪の敷地を有する東京郊外への移転・新設について、時の東京都知事井上友一に意見具申を行う。
1917(大正6)年 1月東京府告示第21号、移転建築予算発表。9月20日府参事会にて、移転地を荏原郡松沢村上北沢に決定。12月東京府議会にて、荏原郡松沢村への移転案が可決。
1919(大正8)年 東京府下松沢村に移転、東京府立松沢病院に改称。(精神医学教室は、本郷の帝国大学医科大学附属病院内に移転。なお、同精神医学講座教授が松沢病院院長を兼任することは昭和24年まで継続した。)
巣鴨病院に関する資料
- 東京府巣鴨病院(1903)明治三十五年東京府巣鴨病院年報
- 東京府立松澤病院医局同人・東京帝国大学精神病学教室同人(1928)東京府立松澤病院ノ歴史及患者統計、呉教授在職二十五年記念文集別刷
- 松沢病院120周年記念誌刊行会(2001)松沢病院120年年表
- 呉秀三(1912)我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設(金川英雄訳・解説(2015)[現代語訳]わが国における精神病に関する最近の施設、青弓社)
注釈
- ↑ 呉秀三(1912)我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設(金川英雄訳・解説(2015)[現代語訳]わが国における精神病に関する最近の施設、青弓社)では2万2931坪3合9勺5才であるとの記述がある