「紫友ぺんくらぶ」の版間の差分
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− | '''紫友ぺんくらぶ''' (しゆうぺんくらぶ) | + | '''紫友ぺんくらぶ''' (しゆうぺんくらぶ) は、1984年に文筆を軸に集まった同窓生によって設立された集まりである。1989年7月に「紫友くらぶ」と改称するまでの5年間で講演会や会報によって同窓会活動の活発化に貢献し、[[立志・開拓・創作 -五中・小石川高の七十年-]]の編纂においても中心的な役割を果たした。 |
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2016年8月26日 (金) 19:32時点における版
紫友ぺんくらぶ (しゆうぺんくらぶ) は、1984年に文筆を軸に集まった同窓生によって設立された集まりである。1989年7月に「紫友くらぶ」と改称するまでの5年間で講演会や会報によって同窓会活動の活発化に貢献し、立志・開拓・創作 -五中・小石川高の七十年-の編纂においても中心的な役割を果たした。
沿革
1983年11月5日に開催された紫友同窓会・創立65周年記念同窓会で、在校生が作成した「開拓総目次」が配布された。これをきっかけに1984年7月、8月に紫友ぺんくらぶ発起人会が数回行われた。
1984年9月13日、かつての「開拓」執筆者を軸に集って交友を深め、そしてもっと同窓会活動を活発にしようという意図で紫友ぺんくらぶが設立。紫友会館で行われた設立総会には62名が参加し、会長は13回生の神津康雄が就任した。同年11月13日には13回生の根本順吉を講師として第1回例会・講演「異常気象と人間」を開催。
1985年2月15日に会報「紫友ぺん」の第1号を発行
1985年6月19日に紫友同窓会委員会に「五中・小石川高70年史」を提案し決定される。
1985年9月7日の第2回総会で「第一部会(新聞、雑誌、編集、出版、著述の関係者。活字メディアの集まり)」「第二部会(詩、短歌、俳句、川柳部門)」「第三部会(音楽、美術、写真、映像(TV)、造形、映画、演劇など視聴覚部門)」「第四部会(科学、技術、教育、建築、化学など、学術、文化全般にわたる)」の4部会が発足し活動が本格化。同月25日には70年史刊行委員会が発足し編集開始した。
例会・講演
例会の際にはセットで講演会を開催していた。
1 | 1984年11月13日 | 「異常気象と人間」<講師・根本順吉(13)・35名参加> |
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2 | 1985年2月15日 | 「オリエント文化について」<講師・江上波夫(1)・27名参加> |
3 | 1985年5月14日 | 「ロス五輪と臨教審と」<講師・岡野俊一郎(02)・22名参加> |
4 | 1985年8月28日 | 「金融政策はトップの判断」<講師・前川春雄(5)・29名参加> |
5 | 1985年11月30日 | 「平城京・大仏鋳造鉱害」<講師・杉山二郎(02)> |
6 | 1986年5月24日 | 「回想・太宰治・壇一夫」<講師・野原一夫(16)> |
7 | 1986年9月27日 | 「From ROPPONGI to BROADWAY」<講師・いずみたく(24)> |
8 | 1987年2月28日 | 「南極大陸、そのクリーンでピュアーな地で」<講師・長連英(12)、鳥居鉄也(13)> |
9 | 1987年7月18日 | 「思ったこと言えなかったこと、外務公務員生活・私の46年間」<講師・井川克一(11)> |
10 | 1987年11月28日 | 「DTM (コンピュータ・ミュージック)について」<講師・林知行(023)> |
11 | 1988年7月9日 | 「谷・斎藤の花紅葉論争」<講師・畔上知時(18)> |
12 | 1988年9月10日 | (例会のみ開催) |
紫友ぺん
会報として「紫友ぺん」を発行。全9号。コピーは紫友同窓会のホームページ上でも公開されている。
- 第1号:1985年2月15日
- 第2号:1985年8月5日
- 第3号:1985年10月1日
- 第4号:1986年6月
- 第5号:1986年9月
- 第6号:1987年1月
- 第7号:1987年7月
- 第8号:1987年11月
- 第9号:1988年9月