「落合寅平」の版間の差分

提供:五中・小石川デジタルアーカイブ
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
(同じ利用者による、間の10版が非表示)
9行目: 9行目:
 
== 略歴 ==
 
== 略歴 ==
  
1886年(明治19年)に都下・西多摩郡平井村(現・日ノ出町)の森田家に生まれる。
+
1930年(昭和5年)1から1938年(昭和13年)まで校長
東京府師範学校に学び、最終学歴は1912年(明治45年)東京高等師範学校本科・国語漢文部の卒業。
 
卒業後、東京府豊島師範学校の教員であった期間が長く、とりわけ1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)の間、付属小学校の主事という重要ポストを併任していた。
 
その後、1930年(昭和5年)10月から1938年(昭和13年)11月まで前任校・府立第八高女の校長であった。
 
1938年(昭和13年)11月に本校校長に就任。当時の本校は「開拓」「創作」の精神をモットーに創立以来の気風は維持されていたものの、年ごとに次々と降りかかってきた時局の激変に対応していかなければならなかった。
 
1941年(昭和16年)12月に足を骨折。
 
1945年(昭和20年)6月30日に退職。1964年(昭和39年)に逝去。
 
  
温和で地味な人柄であっただけに、初代の伊藤校長や続く落合校長、後任の澤登校長と比べても経歴や業績などの具体的な事実が記録されておらず、その足跡が詳しくは伝えられてこなかった。
+
==エピソード==
 +
*会津中学の校長に着任早々、校内誌にて時代に先がけて「ヴィライティーがあって初めてユニティーがある」と、協同の実現のためには多様性の尊重に基づく公平な判断の必要を呼びかけ、教師も東京はじめ各地から新進気鋭の人材を集め、近代化に着手した
 +
*『開拓』三十号に「その後の僕」と題し、退任の所感を述べている。
 +
「僕の私情からいふと死ぬまで五中を去りたくはなかった。生徒諸君は入学試験の口頭試問から自分で行ったばかりの集まりで無類の創立精神で纏まって居る。或いは天下唯一の中学校だといへよう。併し五中は天下の五中だ。僕の私すべきものではない。僕は暫くにして老齢最早溌溂たる青年諸君の先棒がふれなくなった。(中略)時局は重大だ。一切をこれに集中すべきはいふまでもないが、まづ以って日本を永遠に支持すべき根底を養ひおく事も寸時も忘れてはならぬ。(中略)願はくは生徒諸君、言って盡きぬ吾輩の精神を源とし、永遠無窮の見所を開拓することに満控の努力を注いで永く我輩の伴侶となって頂きたいのである」 <ref name="nanajyu"> 立志・開拓・創作-五中・小石川高の七十年- </ref>
 +
*入学式校長挨拶で「五中の建学の精神は、開拓・創作であり、モットーは自由の尊重である。自らの判断で選び取ったことに責任を持つことがほんとうの自由です。先生方を『さん』づけで呼ぶのが五中の伝統です。登校の途中で上級生に会っても先にあいさつする必要はありません。必ず先に上級生が帽子を取って『おはよう』とあいさつしてくれます。下級生の人格を尊重し、下級生をいたわるのが五中の校風です」と語った([http://kogoma.la.coocan.jp/siyutest/siyu/bokou&chositi/chositi/index.htm 紫友同窓会、伊藤長七展HP版])
 +
*昭和11年の『婦人倶楽部』中「中等学校入学試験準備の座談会」の参加者として落合寅平が記載されている
 +
*校長時に体育教師だった嘉納治五郎の口述を「柔道家としての嘉納治五郎」「教育家としての嘉納治五郎」として筆録していた([http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser09_p01.html 意志力道場ウォーク])
  
==エピソード==
+
==脚注==
*本校着任早々に行われた就任の挨拶で「お花畑から麦畑へ来たような感じ」との名言を述べた。(真田幸雄「井上宗助先生のことども」・歴代校長を語る『半世紀』p.63)
+
<references />
*戦時中の五中生にとって校歌よりも親しみのもてた愛唱歌である[[五中健児の歌]]を作詞した。
 
*昭和15~16年頃に取得した旧木造校舎南ウィング南側、駕籠町小学校に接した土地は、当初はバスケットのコート等に使われ、戦後は体育館用地として貴重な役割を果たし、現在はテニスコートとして使われている。井上校長の気付かぬ功績として『半世紀』p.18の対談では「名校長」とさえ評価されている。
 
  
 
==関連項目==
 
==関連項目==

2018年5月12日 (土) 21:46時点における最新版

落合寅平第2代校長

落合 寅平(おちあい とらへい)は、東京府立第五中学校校長(第2代)である。第5代校長の落合矯一の父親である。

Ochiaitorahei.jpg

Ochiaitorahei2.jpg

略歴

1930年(昭和5年)1から1938年(昭和13年)まで校長

エピソード

  • 会津中学の校長に着任早々、校内誌にて時代に先がけて「ヴィライティーがあって初めてユニティーがある」と、協同の実現のためには多様性の尊重に基づく公平な判断の必要を呼びかけ、教師も東京はじめ各地から新進気鋭の人材を集め、近代化に着手した
  • 『開拓』三十号に「その後の僕」と題し、退任の所感を述べている。

「僕の私情からいふと死ぬまで五中を去りたくはなかった。生徒諸君は入学試験の口頭試問から自分で行ったばかりの集まりで無類の創立精神で纏まって居る。或いは天下唯一の中学校だといへよう。併し五中は天下の五中だ。僕の私すべきものではない。僕は暫くにして老齢最早溌溂たる青年諸君の先棒がふれなくなった。(中略)時局は重大だ。一切をこれに集中すべきはいふまでもないが、まづ以って日本を永遠に支持すべき根底を養ひおく事も寸時も忘れてはならぬ。(中略)願はくは生徒諸君、言って盡きぬ吾輩の精神を源とし、永遠無窮の見所を開拓することに満控の努力を注いで永く我輩の伴侶となって頂きたいのである」 [1]

  • 入学式校長挨拶で「五中の建学の精神は、開拓・創作であり、モットーは自由の尊重である。自らの判断で選び取ったことに責任を持つことがほんとうの自由です。先生方を『さん』づけで呼ぶのが五中の伝統です。登校の途中で上級生に会っても先にあいさつする必要はありません。必ず先に上級生が帽子を取って『おはよう』とあいさつしてくれます。下級生の人格を尊重し、下級生をいたわるのが五中の校風です」と語った(紫友同窓会、伊藤長七展HP版
  • 昭和11年の『婦人倶楽部』中「中等学校入学試験準備の座談会」の参加者として落合寅平が記載されている
  • 校長時に体育教師だった嘉納治五郎の口述を「柔道家としての嘉納治五郎」「教育家としての嘉納治五郎」として筆録していた(意志力道場ウォーク

脚注

  1. 立志・開拓・創作-五中・小石川高の七十年-

関連項目

前任 在任 後任
伊藤長七

1930年度 (昭和5年度)

1931年度 (昭和6年度)

1932年度 (昭和7年度)

1933年度 (昭和8年度)

1934年度 (昭和9年度)

1935年度 (昭和10年度)

1936年度 (昭和11年度)

1937年度 (昭和12年度)

1938年度 (昭和13年度)

井上宗助