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見心寮 (けんしんりょう) は、東京府北多摩郡谷保村谷保(現国立市中1丁目12番地)にあった「職員生徒二位一体の修道」のために設けられた施設。
沿革
1926年(昭和元年)12月、箱根土地株式会社が都市開発・分譲を行っていた[1]国立駅前の土地700坪(東京府北多摩郡谷保村谷保字拜島道北)を、財団法人紫友会が購入。
1933年(昭和8年)7月着工、同年12月落成。昭和12年発行の学校一覧によると工費は6900円(設備費を除く)。
1934年(昭和9年)1月12日新築登記し使用を開始した。
「見心寮」と命名したのは落合寅平校長。仏教に造詣の深かった落合校長が、「心の開拓」を意味した命名と言われている。
戦後は教職員の宿舎として利用された。
1967年(昭和42年)、作業用地の500坪を売却。売却費は紫友会館建築費の一部となる。
1971年(昭和45年)11月18日にエーザイへ売却(代金3000万円)。[2]
概要
寮舎:木造瓦葺2階建 延65坪。1階は10畳間が2室、8畳間が1室、ほかに小使室、厨房、浴室など。2階は8畳間が3室。収容最大人数25人。
総坪数700坪:寮舎200坪(前庭を含む)、菜園等作業用地500坪。
寮規
一、見心寮ハ東京府立第五中学校職員生徒修道ノ為ニ之ヲ設ク他ノ目的ニ使用セズ
一、開拓ノ精神ヲ尊重シテ惟神ノ皇道ヲ発揚シ之ヲ体現スルヲ修道ノ眼目トス
一、清、明、直以テ神ヲ敬シ人ヲ愛シ克ク忠克ク孝進ンデ難ニ當リ一身ヲ顧ミズ協心戮力勇往邁進玉砕シテ悔ナキ者之ヲ皇道ノ要諦トス
エピソード
澤登哲一校長は、昭和20年12月から、小石川高校を退職した後も含め、昭和40年2月まで、見心寮に住まわれていた[3]。
作家の小島信夫は、昭和24年から昭和29年まで英語教員として小石川高校に勤めており、見心寮をモデルとした「丹心寮教員宿舎」という作品を『同時代』(1953年11月) に上梓している。