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澤登哲一校長が、都立第五中学校に着任したのは、校舎消失により明化国民学校に"疎開"していた昭和20年6月30日。「友がくれた鉱夫の服を着、巻ゲートル。地下タビ、九中の野球の帽子という姿」<ref name="kaitaku">澤登哲一(1958) 留別.開拓, 45号 : 18-20</ref>であった。それから13年にわたり小石川で過ごすことになった。着任時を振り返りのちに次のような文書を残している。 | 澤登哲一校長が、都立第五中学校に着任したのは、校舎消失により明化国民学校に"疎開"していた昭和20年6月30日。「友がくれた鉱夫の服を着、巻ゲートル。地下タビ、九中の野球の帽子という姿」<ref name="kaitaku">澤登哲一(1958) 留別.開拓, 45号 : 18-20</ref>であった。それから13年にわたり小石川で過ごすことになった。着任時を振り返りのちに次のような文書を残している。 | ||
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2020年12月4日 (金) 18:40時点における最新版
澤登哲一(さわと てついち)は、第二次世界大戦末期の1945年 (昭和20年) 6月に五中校長として着任、新学制により五中最後の校長となり、新制高校に「小石川」の名をつけてその初代校長となり1958年3月までつとめた第4代校長である。
着任
澤登哲一校長が、都立第五中学校に着任したのは、校舎消失により明化国民学校に"疎開"していた昭和20年6月30日。「友がくれた鉱夫の服を着、巻ゲートル。地下タビ、九中の野球の帽子という姿」[1]であった。それから13年にわたり小石川で過ごすことになった。着任時を振り返りのちに次のような文書を残している。
私が都立十五中から五中へ転補されたのは廿年六月卅日付、(中略)。青山で旧師範の校舎とわが家とが同時に焼かれたのは五月廿七日。新宿の六中、二階校長のもとで学校を再開したのが六月六日。両校生徒の対面式を終った直後、視学官の前歴ある校長から『君は今回の校長異動の中に入っている』と聞かされた時には、全く驚いた。(中略)労苦を共にした同僚中、十余名も応召している。敗戦はすでにはっきりしている際であるから、こららの人が生還して来た時に迎えるのはわたしの責務でもあり、(中略)勤労動員に出ている生徒や在校の下級生たちを見捨てて行くことは、なんとしても忍びない。(中略)いろいろな点から考えて自分は余りにも五中にふさわしくないものと判断した。/教員生活を止めようかと真剣に考えたのはこの時であった。[1]
エピソード
- 1945年6月の赴任時、ヨレヨレの国民服にスリ切れたズックの靴、ゲートルを巻いて頭には戦闘帽、腹に巻いた幅広の軍隊用バンドと肩にかけたズタ袋風の兵隊用のカバンの姿。カバンはシンボルになり、終戦後に復員した人から次々に補給され、30年代終わりごろまでに欠かせぬアクセサリーになった
- 随所に使われる「おめえたち」とか「野郎ども」とかいう伝法な言葉づかいが強烈な印象
- 「清濁併せ呑む」という大度量があって、多くの沢登ファンをつくった
- 座談が好きで、いつか本筋を離れて枝道に入り、とめどのない迷路に分け入ってしまうのだが、不思議と最後には間違いなく本質に戻って話に結末をつけるところは、頭の良さだと感じた
(以上は、紫友同窓会報No.7真田幸男氏[三回卒、元校長]による思い出)
- 彼はシャレタ生き方をきらいました。自らの便乗的姿勢を美化するために主義を誇称することを極度に嫌っていました。人はそのような先生の生き方を反骨精神などとといいます。彼の反骨は反権力という意味ではなく、物欲しげな姿勢、卑しい下品な生き方に対する反発だったとおもいます
(以上は紫友同窓会報No.7川野健二郎氏[本校教諭]による思い出)
- 昭和20年6月、その二か月前に戦災を蒙った都立第五中学校は、近所の明化小学校の一隅を借りて細々と授業を行っていた。そこで沢登校長が登場する。就任第一声は「おめえたちは水泳ができるか」というものであった
- 昭和25年頃、ある有力都会議員の下で五中焼跡地を一大商店街と住宅地にしようとする青写真ができつつあった。校長は都に対して一大反対運動を展開して、校地としての復活決定に持ち込み、さらに、木造建設の予定を現在の鉄筋造りに強引に変更させた
(以上は紫友同窓会報No.7石田雅男氏[〇二回卒]による思い出)
昭和31年に石原慎太郎が太陽の季節で芥川賞を取ったことに関連して、朝礼で「くだらない小説だ。君たちは読む必要がない」とバッサリやった。[2]
関連項目
前任 | 在任 | 後任 |
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井上宗助 | 落合矯一 |