「紫友会館」の版間の差分

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[[ファイル:Siyukaikancarry.jpg|thumb|200px|紫友会館の食堂で出ていたカレーを食べていると思われる写真(023卒業アルバムより)。]]
  
開設当初は日に500人ほどの利用があったようだが、校外の飲食店や弁当の生徒が増えたため利用者は徐々に減少した。昭和51年4月に学校が行ったアンケート調査によると調査人員230名中校内食堂を利用する者85名に対して校外店を利用する者が79名とほぼ同数だったことが新聞『創作』昭和51年7月20日発行第93号に掲載されている。
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10枚綴りのチケット(350円)を事前に購入するシステムを採用。チケット1枚でうどんかそば、2枚でカレーライス、3枚で大盛りカレーが注文できた<ref >小石川検定 95</ref>。
  
経営者であり本校卒業生の石井氏の善意に負うところが多かったものの利用者数の減少と材料費の高騰により昭和51年6月1日に値上げがあり、そば120円、カレー240円になったことが新聞『創作』昭和51年7月20日発行第93号に書かれている。
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開設当初は日に500人ほどの利用があったようだが、校外の飲食店や弁当の生徒が増えたため利用者は徐々に減少した。
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昭和51年4月に学校が行ったアンケート調査によると調査人員230名中校内食堂を利用する者85名に対して校外店を利用する者が79名とほぼ同数だったことが新聞『創作』昭和51年7月20日発行第93号に掲載されている。
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経営者であり本校卒業生の石井健之(03F)氏の善意に負うところが多かったものの利用者数の減少と材料費の高騰により昭和51年6月1日に値上げがあり、そば120円、カレー240円になったことが新聞『創作』昭和51年7月20日発行第93号に書かれている。
  
 
その後も利用は伸び悩み、昭和52年7月に食堂は閉鎖された。
 
その後も利用は伸び悩み、昭和52年7月に食堂は閉鎖された。

2017年12月12日 (火) 14:19時点における最新版

2017年4月撮影

紫友会館(しゆうかいかん)は創立50周年記念として1968年7月落成した生徒、教職員、同窓生などのために建設された会館。建設後に土地とともに東京都に寄付された。

建設

紫友会館建設を伝える新聞『創作』第73号昭和42年3月1日
建築前の完成予想図面。『創作』第76号昭和42年11月25日

昭和43年7月15日立会検査実施。

昭和43年7月20日引き渡し

概要

昭和43年7月20日に完成。1階が食堂、2階が大会議室と小会議室。生徒会本部としても利用、3階が合宿で利用する14畳の大和室と小和室、洋室が2つ。

建設当初は小和室は教員の休養室と生活研究会の茶道部が利用し、洋室は合宿時に教員が泊まることを想定していた。

紫友会館の完成を伝える新聞『創作』第79号昭和43年7月20日

昭和52年7月に食堂閉鎖。

元食堂が改装され昭和53年4月から特別講座などの大教室になった。[1]

耐震基準を満たさないことから生徒の立ち入りが禁止され、紫友同窓会が事務所および会議に利用するのみとなった。

食堂

紫友会館の食堂で出ていたカレーを食べていると思われる写真(023卒業アルバムより)。

10枚綴りのチケット(350円)を事前に購入するシステムを採用。チケット1枚でうどんかそば、2枚でカレーライス、3枚で大盛りカレーが注文できた[2]

開設当初は日に500人ほどの利用があったようだが、校外の飲食店や弁当の生徒が増えたため利用者は徐々に減少した。

昭和51年4月に学校が行ったアンケート調査によると調査人員230名中校内食堂を利用する者85名に対して校外店を利用する者が79名とほぼ同数だったことが新聞『創作』昭和51年7月20日発行第93号に掲載されている。

経営者であり本校卒業生の石井健之(03F)氏の善意に負うところが多かったものの利用者数の減少と材料費の高騰により昭和51年6月1日に値上げがあり、そば120円、カレー240円になったことが新聞『創作』昭和51年7月20日発行第93号に書かれている。

その後も利用は伸び悩み、昭和52年7月に食堂は閉鎖された。

関連事項

脚注

  1. 紫友同窓会報No.5
  2. 小石川検定 95