「開拓館」の版間の差分
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2階に図書室が、1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎で、後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われた。 | 2階に図書室が、1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎で、後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われた。 |
2017年4月12日 (水) 15:13時点における版
開拓館(かいたくかん)とは、学校敷地の東角に1922年 (大正11年) 11月1日に完成した2階建ての洋風建築の校舎である。
概要
建坪60坪の洋風二階建。工費30600円(設備費を除く)。図書閲覧室、体育室に充てるために建てられた。
2階に図書室が、1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎で、後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われた。
2階の図書室は、邦書に限らず 英語の原書が金文字の背表紙でずらりと並ぶほどの、膨大な蔵書量だったと言われている。
エピソード
50年記念誌「半世紀」の座談会「伊藤校長と自由教育」には次のエピソードが残されている。
板坂 あすこは教会の土地だったんですが、それを三年目ぐらいに買ったんじゃないですか。
三和 あの建物は始めは、二階が図書室で、一階が畳の上のマナーの勉強の場所。
成田 それと同時に柔道もやったよ。
阪本 始めは柔道じゃなくて、剣道をやってましたよ。
長沢 柔道は確か私が二年の時ですから昭和二年ですか。そのとき水高先生がみえて、嘉納治五郎先生の話をいろいろやって、それからですよ。
(中略)
板坂 開拓館の二階でね、音楽の講義をきいた覚えがあるんです。
三和 閲覧室のピアノでね。
(板坂登(旧制5回生)、当時教員の三和一雄(旧制3回生)、元教員の成田喜英(旧制1回生)、阪本泉(旧制1回生)、長沢吉男(旧制7回生))